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2009年3月 5日 (木)

三河島事故

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160人の死者を出す大惨事となった、常磐線・三河島での列車衝突事故は、昭和37年5月3日憲法記念日の午後9時37分頃に起こった。田端操車場を出発したD51に牽引される下り貨物列車が、常磐線の下り本線に入る合流地点の赤信号を見落とし冒進、安全側線に突っ込んだ後、下り本線上に脱線転覆。そこへ上野発取手行きの下り電車が衝突し、下り電車は上り本線上に脱線、ここに上野行きの上り電車が突っ込んで 「国鉄戦後五大事故」に数えられる大事故になった。赤信号見落としを防止するATS(列車自動停止装置)の採用が促進される契機になった、鉄道史上注目される悲劇的事故であった。

さて最近、鉄道ジャーナリストの梅原淳氏のホームページ 「鉄道よもやま話」 にこの事故に関して興味深い考察があるのを発見した。これによると、貨物列車の機関士の赤信号見落としは、実は見落としでなく、赤信号が青に変るであろう事を見越して、意図的に速度を落とさなかった事にあると云う。 「出発信号が進行に変ると信じ、そのまま石炭を投入した」 という機関助士の供述があるとされている。この指摘、国鉄の乗務員のたるみが原因とする当時の論点と違っていて注意を引く。この考えが今までどれほど関係者・専門家の中で取り上げられて来たのかは判らないが、素人の私には非常に印象深い考察で、氏の考えを検証してみたく春めく昼休みに三河島へ行ってみた。

写真は、三河島駅下りホームの東端から水戸方面を望んだものである。奥に見える3本の信号のうち、一番左の赤信号が、下り貨物線 (一番左の線) が常磐線下り本線 (左から二番目の線) に合流する地点の、 「貨出」 (貨物線出発信号機) である (その先は4車線が3車線になっている)。貨物線から常磐線下り本線に入ろうとした貨物列車は、この左端の赤信号を見落として冒進、その先にあった安全側線を突き破り脱線転覆して事故の第一原因を作ったとされている。さて三河島駅東端からこの「貨出」までの距離はグーグルマップで計ると約370米である。一方撮影地点から上野方面を振り返ると、田端操車場から出て来た下り貨物線が撮影地点まで1000分の12の勾配で登って来ている。

事故の第1原因の貨物列車は45輌であったから1輌8米とし機関車D51の全長20米を足すと380米になる、当時の劣悪な貨物列車のブレーキ性能を考え、「貨出」の赤信号で余裕をもって止まろうとすると、貨物列車の後部のかなりの部分は1000分の12の上り勾配の中に停車せざるを得ない事が判る。「貨出」で停止した後、後部が1000分の12の上り勾配で停止している貨物列車を、常磐線下り本線に余裕をもって引き出す事は、当時のD51ではそう容易な事ではなかったのではないだろうか。

当時は、主な貨物輸送は鉄道に頼っていた時代である。操車場を出て荷物で満杯になったブレーキの効かない重い貨物列車に、牽引力や加速に劣る当時の蒸気機関車が坂を登って来た処だった。電車の行き交う本線に、運行に支障にならない様に乗り入れるのは、名人芸の様なハンドルさばきでスピード調整をしつつ、停止する事なく赤信号が青に変るのを見越して運転していたのでは、と考える梅原氏の論は慧眼と言えよう。今日現場に寄った私も、その可能性が大いに考えられると、感じたのであった。 日常的にここでは、そういう運転が行われていたのだろうか、ただ事故の日は、運悪く脱線した貨物列車に突っ込んだ常磐線下り電車は、ダイヤよりわずかに遅れていた為、常磐線に流入する信号は貨物列車の機関士の見越しに反して、赤から変らなかったのであろう。

もはや事故の真相はわからないが、わが国が高度成長を始める頃、貧弱な車両・設備で、輸送の需要を一手に賄っていた当時の国鉄の実態である。 ダイヤの遵守には、現場の名人芸や職人技に頼った部分もあったかもしれない。そんな時代背景が三河島や当時の国鉄の事故の要因であったかもしれないと、三河島駅で佇みながら感じたのだった。

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