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2009年2月 5日 (木)

山本 八郎

読売新聞の「時代の証言者」シリーズにプロ野球・最多安打の、張本 勲氏が登場している。このところ昭和36・37年の東映フライヤーズ時代の事が連載されていて、とても懐かしい。

私は、東映フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)が当時本拠地にしていた駒澤球場の近所に住んでいたが、その頃のフライヤーズは「駒澤の暴れん坊」と言われる弱小球団で、地元商店街で歯磨きなどを買うと、時々無料外野招待券を貰えたものである。野球の切符欲しさに歯磨きや石鹸を多めに買ってくれと、母親にせっついてはよく怒られた記憶がある。

そんなフライヤーズが昭和36年に巨人軍を辞めた水原監督を迎えてからは、見違える様に強くなっていった。投手は怪童・尾崎、土橋、久保田に加え、伝説の早慶6連戦を投げぬいた安藤元博、打には張本、毒島(ぶすじま)、安藤順三、それに山本八郎など個性あふれる選手がそろっていた。

なかでも張本氏も書いている、山本八郎(ヤマハチ)である。浪商出身でケンカハチロウなどと言われ、乱闘事件などの話題も事欠かなかったが、いつもチームの中心の選手であった。駒澤球場で例によって観戦していた頃である、その試合ヤマハチは捕手であったのか内野を守っていたか記憶も定かではないが、打者の打った内野フライが空高く舞い上がり、他の野手が捕球体勢に入っているにもかかわらず、彼が「俺が取る、俺が取る」と強引に割って入って、ぽろりとやってしまった。観客席からは当時のパリーグの球場の常、汚い罵声や野次が飛び交った。

記憶によると、その直後また相手のフライが、ヤマハチの方にふらふらと飛んできた。観客は、また彼が強引に球を取りに行って、何かをしでかすのではとハラハラしながら見ていると、予想どおり一旦グラブに収めた球をポロリとこぼす。これには場内が一転、失笑というか、和やかな「珍プレー・楽しみムード」に変ったのであった。

そんな元気が取り得のチームも、水原監督の指導よろしきを得て、昭和37年にパリーグ初優勝を遂げたのであるが、その当時の様子を本日付けの「時代の証言者」で張本氏は次の様に語っている。

「日本シリーズの相手は阪神でした。東映は甲子園でいきなり2連敗して、その夜寝台車で東京に帰りました。今では考えられないでしょうが、同じ列車に阪神ナインも乗っていたんです。夜9時頃です。乗った途端、阪神の選手たちはピタッと寝台の境のカーテンを閉めて寝ていました。しかし私達は、カーテンを開け 『動くナイトクラブだ!』 と叫んで 『ビール持ってこい』 『ピーナッツ持ってこい』 と言った感じで宴会が始まりました。」

「端の方のベッドにいた水原監督は、ものすごく悩んだそうです。 『こいつら、ばかか。それとも度胸が据わっているのか』 と。どなりつけようかととも思ったみたいですけど、監督は 『よし、この若いやつらにかけよう。このくそ度胸にかけてみよう』 と考え直し、注意しなかったんです。」

「”暴れん坊”と言われた東映らしさを重視した放任主義が当たり、チームは第3戦で引き分けた後、何と4連勝。日本一に輝きました。」

まだ世の中がのんびりしていた良き時代であった。駒澤球場はなくなりオリンピック公園になったが、私の記憶に残るフライヤーズと、張本氏が新聞に書いている当時の実状は同じであったなと、「時代の証言者」を読んで、思わずにやっと笑ってしまった。そう言えば日本シリーズ優勝パレードに、深沢の合宿所まで付いて行って、帰宅がひどく遅くなり両親を心配させたなあ。
張本氏風に言わせれば 「喝 !」 である。

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