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2009年2月10日 (火)

人間の覚悟

先ごろある葬儀に参列したのだが、お焼香の後に渡された恒例のお返しに”お清め”の塩がなく 「浄土真宗では、死を穢れと考えていないのでお清めはありません」 との説明の紙が封筒に入っていた。いつも感じていた事だが、故人を偲んで葬儀に参列する事によって何故穢れるのか、”お清め”が必要なのかとても不思議だったので、何だが大変すがすがしい気持ちで帰ってきた。

折から、五木寛之の新潮新書 「人間の覚悟」 を読んでいたら 「死は汚辱でなく自然へ帰ること」 という下りがあって、日本では「死穢」と言う考えが中世の貴族社会あたりから定着してきたらしいが、浄土真宗を創始した親鸞は、そういう迷信じみたタブーをまったく恐れなかったと云う。親鸞の始めた浄土真宗では、死は穢れの世界でなく、自然へ還るごく自然の過程で、死後は光り輝く浄土に行くのだと捉える。

五木寛之によれば、人生のそれぞれの年代でそれぞれの生き方がある様に、「ベッドに拘束されて失禁したまま」 の老人でも人として生きる意味があると言う。また、そういう老人をケアすることによって、我々自身の”生”も保たれているそうだ。仏教では「菩薩行」と言うらしいが、人の面倒を引き受ける事なしに私たちは生きて行けないと言うのである。

我々が学校で習って来た西欧の合理主義は「理性」が全てにおいて優っているべきものであるから、”ぼける”と言う事は何か別次元の事であり、さらに死は幽冥を境にする畏怖の存在であると考える。しかし人間は、生まれてきた瞬間から、刻一刻と死への道を歩き、病気や別離を内包する存在であって、理性の崩壊が人間の崩壊ではないし、死が何か穢れた特別のものでもない、と五木は言う。そういう不条理のすべてを引き受けて生きているのが、人間の存在なのだと言う。

さて入院している高齢の父親の判断能力がもうない様なので、法定の諸手続きの為に医師に診断書を頼んだ処、先ごろ「認知症が進行し、判断能力はない」と言う診断書を受領したのであった。日本の最高学府を卒業し、つい半年前まで頭脳明晰であった父のベッド上の今の姿を見ると、得もいわれぬ感情も湧き上がって来るのであるが、五木寛之の 「人間の覚悟」 を読んでからは、肉親のこういう状態をも引き受けていくのが人生なのだと、少し救われた気持ちがするのである。

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