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2009年2月

2009年2月27日 (金)

大人買い

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母校から創立150周年記念事業の報告が郵便で来る。同封されていた記念グッズの購買の案内をみているうち、学校のロゴやマークの入った服飾品や記念品が猛烈に欲しくなって来た。30数年前に卒業した時には、今のようにカラフルなグッズやノベルティが豊富になかったし、そんな物をわざわざ金を出して買う気もなかった。わずかに競技で使ったユニフォームや大学の名前が入ったトレーニングウエアを捨てずに持っていたが、これらの衣類も、もうかなり傷んでしまっている。

しかし50歳代も後半になり、大学新卒で永年勤めた会社を去った今、段々自分のアイデンティティーを確かめたくなるのだろうか、こんな物が非常に懐かしくなってくる。

で、仕事の合間に事務所を抜け出して、母校の生活協同組合を訪れて買ったグッズ類がこれらである。また来るのも面倒なので、ちょっと心引かれた品物を纏めて買ってしまったら、こんなに多くなってしまった。学生の頃は仮に欲しいものがあっても、お金がなかったから一つづつ買ったであろうアイテムであるが、そこはもうシニアの部類に入ろうかという年齢である。一つ一つの価格は大した事ないわい、と一挙に「大人買い」してしまったたら2万5千円も購入してしまったのであった。

買ってみると、これらの中の何点かを身につけて、高校の応援に甲子園まで行きたくなってきた。センバツが早く始まらないかと雪の空を見上げる今日である。

2009年2月26日 (木)

老化とジョギング

生来、疑い深い性質なので、占いやら血液型性格分類などは信じてこなかった。健康に関する諸説も同様で、テレビなどで特定の健康法や食品・料理などが紹介されても特に試してみようとも思わない。ごく常識的な永く一般に言われている事を継続するのみだと信じている。ダイエットにも王道なし、食べる量を減らして運動を増やすのみ、苦しいが痩せたいのなら仕方ない。その他寝ている間に英語を覚える学習などというCMがさかんに流されているが、そんな虫の良い学習はありえない。勉強は強いて勉めるしかない。

さて経済誌を見ていたら、慶応出のアンチ・エイジングに取り組んでいる医師が「老化」に関してコラムを連載している。そのコラムによると従来、フルマラソンなどは大量に酸素を消費するため、老化の原因となる活性酸素を体内で大量生産し、体に悪いと考えられてきたが、最近の研究では、一般に有害とされているストレスも適度にあったほうが、かえって健康に良いという事が明らかになってきているそうである。体を鍛えた上で、無理をしない程度に行えば、活性酸素を除去する酵素が出やすくなったり、細胞がうまく対応して結果として活性酸素が減少するのだそうだ。

この医師によると 「僕たちはある程度キツイ負荷があるからこそ、肉体的にも精神的にもより強く、元気に生きようとするし、生きていけるかもしれない。」 「人生を予想外に面白くする為に(適度な運動でなく)アンチエイジングのためにも、少しだけきつい運動を始めてみては?」 と薦めている。

以前から、ジョギングは活性酸素を増やすので害が大きいと言う指摘がある事は知っていたが、自分の実感からは、健康でありさえすれば、中年以降、少々ハードなトレーニングをしても、それで特段身体に害があるとは感じていなかったから、そんな説はハナから無視して40数年間走ってきたのである。ここへ来て自分の感覚が、科学的にも実証されたのはうれしいが、また数年すると「実はそうではなかった」などと言う研究結果も出るのかもしれない。

まあ私のトレーニングはややハードと言っても、仕事や社会人としての生活をないがしろにする様な事はない程度である。週末に12時間も熟睡してしまって時間がもったいないなあ、と思う位があえて言えば弊害である。

ところで「何があってもたばこは、絶対にやめない」と豪語している喫煙者の90%以上が、シリアスな病気になり医師に脅かされるとタバコをやめてしまうそうである。私の場合タバコは吸わないが、将来「実はやっぱりジョギングはとても体に悪く、老化を促進する原因だった」と云う説が仮に有力になっても、走ることは生涯続けていく事だろうと思っている。

2009年2月25日 (水)

恐怖のシナリオ

1990年代前半、キッシンジャーがあるテレビ番組で、21世紀の早い段階に米国と中国は太平洋の覇権を巡って戦争に入る、と発言していた。当時の中国の力からすると、その発言は夢の世界だと思っていたが、昨今の経済・軍事分野で中国のプレゼンスを見るに付け、キッシンジャーの予想は核心を突いていたと感じる。

さて、昨年初めから読み始めたハンチントンの 「文明の衝突」 の原書講読もようやく最終段階に入って数ページを残すだけとなった。昨年末のハンチントンの死去も契機になったのか、あちこちの新聞や本に 「文明の衝突」 は引用され、ますます洛陽の紙価を高めている。

さてハンチントンは各文明間の断層線での対立が激化したあげく、2010年にはこんな「最悪のシナリオ」も想定できると、90年代前半に出版された本書で記している。

「2010年台湾と中国は和解に達していて、台湾は事実上の独立を失うことなく、北京の宗主権を認めている。中国は南シナ海の支配権を確立しようとしベトナムと反目するが、次第に紛争がエスカレートし中国はベトナムに侵攻する。ベトナムはアメリカに支援を訴えるもこれに中国が反発、米中が戦争状態に入る。米国内では他国の紛争に巻き込まれる事への国内の反発が強く、厭戦気分が横溢して劣勢になる。窮地の米国は他の西欧諸国の支援を得ようとする。

一方、この戦争を契機に他の文明の主要国が、これまでの秩序・ヘゲモニーを覆す動きにでる。インドは中国が東アジア戦線に関わっているのを機にパキスタンに侵攻。中国とロシア国境でも戦端が開かれる。米国の劣勢を受けてイスラム諸国は反西欧という事で決起する。日本は米国の劣勢を見て中国の覇権に屈して中国側につく。こうして世界は、アメリカ・ヨーロッパ・ロシア・インド連合対中国・日本・イスラム諸国連合の2大陣営で地球規模の大戦になる。」

どうであろうか、台湾と中国との関係、南シナ海や東シナ海での中国の動きを見ていると、少なくとも想定シナリオのごく初期の過程はすでに現実になっている部分もあり、戦慄を感じるのである。

予期せぬ経済混乱で世界中が混乱に陥っている中、中国は機動的な経済政策で各種在庫の調整を進め、日本の素材メーカーも一息らしい(日経新聞2月23日)。中国の需要に依存する海運マーケットは2月初頭から早くも上昇を始めている。中国が今回の経済危機を脱する牽引車にでもなろうなら、国際社会でのプレゼンスが一層上がり・・・・・。

世界八大文明(ハンチントン)の一つの日本文明であるが、今後プレゼンスを増す中国の前進基地として、太平洋地域の中国本土の防波堤の地位になるのか、西欧社会の一員として対中国封じ込めの一環となり、アメリカの不沈空母の役割を果たしていくのか、どちらの陣営により巻き込まれのかの岐路も近い様である。アングロ・サクソンスタイルの略奪的な資本主義もこりごりであるが、さりとて契約の概念のみならず社会道徳や規範が違い、ネポティズム(一族・縁故主義)が社会の原動力になる中国スタイルも真っ平である。

今回、クリントン国務長官が最初にわが国を訪れた事や、オバマ大統領が初めてホワイトハウスに迎える国家首脳が麻生首相であると言うニュースを聞いて、日本を取り巻く地政学的な深謀が米国の新政権の中で胎動しているのだろうか、と思った。

2009年2月24日 (火)

沈丁花

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日常生活では普段感じない事が、走っていると敏感になる時がある。ジョギングをしていて、どうにも体がしんどくて予定より短めに切り上げたりすると、2~3日後に風邪になって熱が出たりする。同様に町中の音や、匂いに対する神経も、走っている最中は普段より鋭敏になる様だ。日曜日に住宅街を走っていて、遠くでポロポロ・ポロポロローンと「エリーゼの為に」などのピアノの音がして来ると、私までなぜかハイ・ソな気分になってしまい、良家の母・娘がピアノの前で懸命にレッスンしている姿などが脳裏に浮かんでしまう。

匂いと言えば春は沈丁花、秋は金木犀の匂いである。普段、通勤で歩く分には花の香など感じないのだが、ジョギング中はいち早く、艶かしい季節の花の匂いを感じる。嗅覚に関しては、日頃、妻は私より10倍くらい優れていると感じるが、走っている時だけは私の方が町中の匂いに鋭いと自負している。

さてそんな最中、先日はいち早く沈丁花の匂いを感じた。まだ寒いものの。もうそんな季節かと嬉しい。思わず一旦家に戻って携帯で咲きはじめの沈丁花を撮ったのだった。

2009年2月23日 (月)

魚肉ソーセージ

かつてよく食べた何でもない食べ物が、時々妙に懐かしくなる時がある。例えば小学校時代、給食にごく稀に出た味噌汁。当時お味噌汁は、あの世にも不味い脱脂粉乳の代わりのメニューだった。なのでお昼前の空腹時に、調理室の方から味噌汁の匂いが流れてくると、今日は脱脂粉乳ミルクなし、早く昼になれと給食の時間が待ち遠しかったものである。大きな釜で暖めて、清掃に使う様なバケツで味噌汁が運ばれてくると、給食当番の子に、「もっと」 とせがんだ記憶がある。また中学時代、お弁当を持ってこない日は、学校で3ケでセットになったパンを購入する事が出来たのだが、そのセットの中に、一つメロンパンやいちごのパンなど甘いのが入っていた。今でも時々、スーパーでイチゴクリームパンなどを見ると、衝動的に買ってしまう事がある位、子供の頃の食の記憶は強烈なのだろうか。

そういえば、昔の柿の種は唐辛子がまぶしてあって、たいそう辛かったが最近のはそうでない。何でもせんべいの質が良くなったので、唐辛子で刺激を与える事より、じっくり味わって欲しいから、辛くはなくなったとどこかで聞いたのであるが、あのシーハー言いながら食べた柿の種がなぜか懐かしい。こんな事もある。少し前、ドライブをしている際中、あのぱりっとした甘くない昔のトウモロコシが食べたくなって、車を止めた駐車場で、屋台のヤンキー風兄ちゃんに「これ甘いの?」と聞いたら、その兄ちゃん得意そうに「甘いよ~」と言う。「なんだ甘いのか、ぱりっとした奴はないのか」と何とはなく本心を言ったら、その兄ちゃんは喧嘩でも売られれたのかと思ったか、ものすごい顔で睨まれてしまった事がある。人の好みは様々だ。ましてや、最近りんごを食べようと思って皮をむくと、中に蜜などがあると私はうんざりしてしまう。りんごは甘酸っぱいからおいしいのに! 新聞紙に包まれた歩きながら食べるコロッケとか、母親に隠れて飲んだ色素だらけのジュースなども懐かしい。そういえば「前田のクラッカー」は健在だが「渡辺のジュースの素」はとうに見なくなった。

そんな事を考えながら、昨日はスーパーを妻とショッピングしていたら、4本で188円の魚肉ソーセージが売られている。魚肉ソーセージと言えば、学生時代、夜中に腹が減ると、よくごま油で炒めて食べた事を思いだす。毎日運動をしていたから腹が始終減っていたのだろう、なんか当時はいつも食べていた様な気がする。さっそく昨日はその4本セットを買って、風呂上りにごま油で炒めて、冷たいビールできゅっとやったら、久しぶりにチープな味と懐かしさが口一杯に広がった。「至福」という言葉は安売り気味であまり使うのが好きではない、「幸福」で充分の場合が多いと思うのだが、運動して風呂に入って冷たいビールを一気に飲む時だけは、どうあろうと「至福」である。

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2009年2月22日 (日)

かちかち山

妻が、後一月余りに迫った東京マラソンの為に、走りこみに余念がない。先週の土曜日は25キロ走、日曜日は70分のジョッグ、今週末は土曜日20キロをレースペース以上で走った。さすがに心身とも疲労してきたので、今日は少し量を減らして15キロくらいのLSD(LONG SLOW DISTANCE 超ゆっくり走)にしようと計画した。キロ7分皇居一周(5キロ)を35分のペースで走り始めたのだが、余りの遅さ、もどかしさにキロ6分のペースに上げてしまう。

各自の身体の中には、快適に走れる範囲の固有のリズムがあって、妻の場合では皇居1周24分半~26分位の場合、走り終わった後に調度気持ちよく汗を感じる様である。LSDは敢えてそれよりかなりおそいスピードで走ることで、日頃使わない部分を鍛えると共に、心肺機能の増進を図ると云うもので、本当は速く走ってしまっては効果がない。しかしキロ7分では早足で歩くのとあまり変らず、せっかちの私にはとてももどかしく感じるので 「エーイ、ままよ」とスピードを若干上げてしまったのだ。予定の15キロまで来て、なんだかゆっくり走っているのが馬鹿馬鹿しくなった私はさっさと 「はい終わり」 と止めてしまうが、妻はもう2キロ走ってくると走って行ってしまった。ゆっくり長く走っていると、競歩の辛さが判る気がしてくる。それと共に妻の東京マラソンに対する熱意に、「見上げたもんだよ、風呂屋のフンドシ」という寅さんの科白が頭に浮かぶのである。

さてこんな妻のやる気に付き合っていたら、さすがに今日は腰の辺りが疲労で痛い。ストレッチをしたり腰を伸ばしたりするが、歳のせいか夜になっても痛みがおさまらないので風呂上りに筋肉痛の薬「タプソール」を久しぶりにお尻から背中にかけて塗った。ただこのタプソール、昔から刺激が強いので有名な薬である。しみこむ成分もあるのだろうが、要は肌に刺激を与えて肌の温度を上げ痛みを緩和するらしい。塗る際は刺激が強いので、いつもはそっと軽く一塗りするだけだが、今日は疲れているし、何よりお尻の上部の辺りは目には見えず、手もうまく使えない場所で不自由である。風呂で温まった処に何気なくたっぷり塗ってしまったのだろう、5分もすると塗布箇所が強烈な熱さで焼ける様である。しばらく冷や汗を流しながら我慢していたのだが、どうにも熱くて何も他の事が手につかない。椅子に座るとお尻が熱くて思わず立ち上がって、走って冷やしたくなる。しかたなく風呂場に駆け込んで、塗った部分を石鹸で洗おうと試みたのだが、なにせ背中やお尻である、そこだけ特定してうまく洗うのは至難の様だ。大急ぎで妻を呼んで、「悪いけど背中の下部とお尻の上をシャワーで洗って」と言うと妻は「あら~、お尻がまっかかよ」と笑い出す。

一応、石鹸で赤くなったあたりを洗ってくれた妻は、にやにやしながら仕上げとばかり、いきなりシャワーの温度を「水」にしてかけ始めるのである。ハッカのガムを噛んだ後に冷たい水を飲む様なもので、「ヒエー」と言って飛び上がってしまうと「まるでかちかち山みたいね、赤い場所が冷えるからね」と妻は大喜びをして眺めていたのだった。おかげで、今はお尻もすっきりとして熱くないのでゆっくり眠れそうである。

2009年2月20日 (金)

白木屋傳兵衛

普段あまり見ないテレビも、土・日にはゆっくりリラックスして眺める時間があるので良い。 「そう言えば、最近顔を見なくなったなあ」 と思わず唸ってしまう俳優やタレントが出演する、東京12チャンネルの 「一泊近郊温泉巡りの旅」 とか、「新春のバス旅行」 などの2時間ほどの番組は、まことに人畜無害、安心して楽しめる。それと共に 「地域密着系!都市型エンターテイメント・アド街ック天国」 も、馴染みの場所が放映される際はリラックスして見る事が出来る番組である。

さて2月7日は、「アド街」で、現在我が事務所のある東京・京橋が紹介されていた。日頃見慣れた町並み、昼食などで時々訪れる店が画面に映し出される中、さるレストランでは知人がお酒を飲んでいる姿が放映されてびっくり。皇居や隅田川にも近い京橋には古くからの名店が多い事を改めて認識した次第。

さてそんなお店の中の第9位が「白木屋傅兵衛商店」、天保元年に創業した江戸箒(ほうき)専門店だそうである。かつて京橋あたりは江戸の海や隅田川に通じた多くの小河川や掘割があり、京橋という地名の由来もそんな川にかかる橋の名前からだそうだ。ここは全国から舟で集まる竹の集散地として有名だったが、その竹や草を使い江戸風のほうきを作ってきたのがこのお店との事。

事務所に近い場所に、こんな伝統のお店があるのを知って、ぶらっと覗いて見ようかと思った処、ここでは安産祈願のミニ箒も売っていると番組では言う。何でもほうきでお腹の上を掃うと、邪気を追い払う効果があるそうで、昔からお土産に良く売れているらしい。子供が生まれた後は衣服のほこりを払うブラシとしても使えます、と言う実用品にもなるのだそうだ。

妻の末の妹がお産を控えているので、早速これをプレゼントしようと思い、次の週に買ってみたのが写真である。化学繊維で出来た物と違って、天然の繊維のほうきは、草のしなやかさとコシがある他、静電気が発生しないのでよく埃などが払えると店の人は言う。これでお腹を払って丈夫な赤ちゃんを生んで欲しいものだ。

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2009年2月18日 (水)

アニミズムとシンクレティズム

中谷巌の新刊「資本主義は、なぜ自壊したのか」(集英社)を読んだ。かつて政府の「経済戦略会議」のメンバーとして構造改革、規制緩和を推進した気鋭の経済学者の「懺悔の書」で、グローバル資本主義やこれまで進めてきた構造改革からの訣別の書でもあるそうだ。中谷によると、若き頃留学したハーバード大学での近代経済学が、学問として余りにも精緻な為に、すっかりアメリカ式の市場主義に酔いしれてしまったそうだが、現在、世界を覆う惨憺たる経済の状況を見るまでもなく、市場原理を優先させた最近の経済学が、人間を本当に幸福にするものであったかを考えると、大いに疑問を感じて考え方を変えたそうである。

この新自由主義的経済は、アメリカという特異な国を土台とした経済で、国の成り立ちが違うヨーロッパや日本では、そもそも馴染めない類のものだそうだが、わが国は米国に倣い強引にやりすぎた感がある、と氏は考えてこの本を著したと言う。さて「行け行けどんどん」の学者が、急に「転向しました」と言っても、これまでそれに躍らされたきた我々、一般市民は面食らう気もするのだが、アメリカ建国以来の成り立ち、一神教のドクトリンから派生したネオ市場主義に世界が席捲され、今またその失敗に起因した巻き添えを喰らって、世界経済ががたがたになっているのを見るにつけ、中谷の指摘に頷く箇所も多い。

ところでこの本、先に読んだ五木寛之の「人間の覚悟」(新潮新書)とかなり論旨が似通っている事に気づく。かたや新自由主義的な近代経済学者、かたや文化人と言われる作家で、かなり立脚点が違う両氏が、今やほとんど同じ文脈で問題点を指摘し、未来への提言を展開しているのは面白い。五木と中谷が共に指摘しているのが、我々が古来育んできたアニミズム(精霊信仰)とシンクレティズム(神仏混淆)の再評価。万物自然に神が宿ると考える、我々日本人が持っている自然との共生感、寺院の敷地の中に神社がある様な宗教的寛容さなどが、この崩壊した経済を立て直すバックボーンとなり、次の穏やかな社会を再構築する為に大いに役立つと両者は説いている。

たしかに、日本では大きな寺院を訪れると、一角に鳥居があったりして「あれ、ここはお寺だったっけ、神社だったっけ」等としばし迷ったりするのだが、外国のキリスト寺院などはその敷地に他の宗教のシンボルなどは決して建っていない様だ。また日本とほぼ同じ大きさの温帯の島国のニュージーランドは、かつて全土が覆われていた森林を伐採して羊の牧草地にしてしてしまったが、わが国では何かの為に国土の大半の木を切ったりはしなかったので、今だに世界第5位の森林面積を誇っている。この様に多文化に対する寛容(いい加減さといっても良いだろう)と、自然を改造するのでなく、自然との共生を図ろうとする日本人の伝統的特性を発揮し、新しい価値観に基いた国造りを目指す点で、立場のまるで違う二人の本が図らずも同じ事を述べているのが興味深い。

2009年2月16日 (月)

走る○○狂

最近はジョギング用シューズやウエアーもカラフルで機能的なものが出回っているらしい。私はシューズだけは1万円以上の良いものを使っているが、ウエアーについては、物持ちが良くて、穴でも開かない限り使い続けてしまう。なので、なかには知らぬうちに布が伸びていたり、ゴムがゆるくなったりしたものも出てくる。

数年前のある暖かい日、久しぶりにトラックで練習をしようとレース用の短いランニングパンツを持って出たのだが、そのランニングパンツは日頃、妻が「なんだかくたびれていてカッコ悪いから、一緒に走る時に履いたら絶対イヤだ」と毛嫌いしているものであった。その直後の試合の「55歳以上60メートル走」などと云う種目にエントリーしていたので、短い本格的パンツでトラックのダッシュ練習をしておかなければならないと思って、20年くらい使っていたのを持ち出したのだが・・・。

さて千駄ヶ谷の東京都体育館付設の全天候トラックに一人で赴き、ウオームアップもそこそこに、倉庫からスターティングブロックを出して何十年ぶりかにセットする。周囲は高校の陸上部の子供たちがスタートの練習などをしていたのだが、そこは昔とった杵柄、臆する事なくおもむろにブロックのセット位置などを調整したわけである。

で、たまたま高校生のピストルを使ってのスタート練習に合わせて、こちらもスタート練習をしてみようかと思いたち、彼らのマネージャーの「用~意!」と言う声で、私もスターティングブロックに身を屈めた。「バ~ン!」と言う号砲一発、若い子たちと飛び出したのだが、「待てよ、あんまり張り切ってダッシュをすると転んでしまうか、肉離れを起こすか」と言う恐怖が一瞬頭をよぎる。

なので「ここは慎重に加速して」等と必死に五感を働かせながら、30メーター位でそろそろ全力疾走になろうか、というその瞬間である。どうも股間のあたりがひどく涼しい。”ありゃ~りゃ~!?”と思うと、なんとランニングパンツのくたびれたインナーが、ダッシュの勢いで完全に腰の方にずれてしまって、大事なものが露出しているではないか。インナーだけなら良かったのだが、ゴムのゆるんだぼろパンツだ、インナーと共にパンツ全体が横に90度ずれて、腰の切れ込みが前に廻ってしまい遮る布は何もない。完全に丸出しになってしまったらしい。

40数年走っているが前にも後にも、こんな状態で走った事はない、あわてて片手で股間を覆おうと試みるのだが、最高速度になっている時には、そう簡単には身体が動かないものである。そんな時に限って、走路の先には高校生の女子マネージャーがウオッチなどを持って、時間を計っているのである。彼女たちの「ギャー」という軽蔑の叫び声が出ないうちに何とかせにゃならんと、片手で前をおさえつつ必死にブレーキをかけたのだが、全力疾走からの停止までの時間の長かった事。まるでスローモーションの様に景色が流れて行くのであった。

どうやら、彼女たちが気づく前に何とか停止して、廻れ右、いまいましいランニングパンツの向きをやっと直して、なんとか前を隠したのだったが、この時ほど競技場で焦った事はなかった。”トラックのストリーキング”とか”走る露出狂”などと話題になるのははまっぴらだ。 以後、古いパンツでのダッシュだけは二度とやるまい、と心に硬く誓ったのであった。

そんな訳で、走る際は靴も大事だが、ランニングパンツは盲点であったと認識を新たにした。
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2009年2月14日 (土)

バレンタイン・デー

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バレンタインの日に、チョコレートをもらう様になったのはいつからだろうか。確か会社に入った頃からお菓子屋さん業界の陰謀で始まった様な気がする。最初は生命保険のおばちゃんが、チョコレートを皆のオフィスの机上にそっとおいていった様な記憶があるのだが、2~3年もするとすっかりブームになってしまい、女子社員、保険のおばちゃんだけでなく、ヤクルトおばさんや取引先、それに飲み屋さん等からチョコレートをもらったものである。お気持ち大変ありがたかったが食べきれないチョコが男性社員の机の上に大量に残っていたものであった。それも残業の合間に皆がつまむのだろう、数ヶ月するといつの間にか消費されていたので、チョコレートがどの位残っているかで、残業時間の多さが判ったのであった。当時は皆、もらったチョコレートをあまり家に持ち帰らなかったのであろうか。

さて最近は、このチョコレート狂騒曲も大分沈静化し、義理チョコなどを配る個数が減った様であるが、お菓子業界もさる者、一つ一つは豪華になって単価は上がっているらしい。一粒500円、買う際は3粒1500円などのチョコレートなども相当売れていると云う。マスコミは連日不況のニュースをこれでもかと、懸命に流していあるが、こんな高級化現象もあるんだと言いたい。

さてこれは、バレンタインに妻から貰ったチョコレート。私の毎年の希望で、妻には子供の頃からある普通の「お菓子」を頼むのである。高級なチョコレートはやはり手間がかかっていて大変美味しいのだが、それとは別にこういう安いお菓子を食べると、素朴な甘さが、子供の頃、遠足など特別の日にバナナと共に持って行った思い出や、おまけについていた鉄腕アトムのシールなどを集めた記憶を蘇らせる。

しかし妻は、他の女性が買うようなそれ用のチョコの方がこの時期買い易くて、こんな普通のチョコを揃えるのはスーパとコンビニ両方に立ち寄らなければならず、却って時間がかかっているのよ、とのたまうのである。そう言えばその昔、明治マーブルチョコレートの宣伝に出ていた上原ゆかりは、今どうしているのだろう?

2009年2月13日 (金)

HOLLAND AMERICA LINE

英語では、"DUTCH"(オランダ人)と云うとあまり品の良くない事を、からかい半分に云う単語が多い様である。 Dutch Auctionは 「せり下げ」、 Dutch Courageは 「酒を飲んだ上でのから元気」、 Dutch Uncleは 「がみがみおじさん」、 Dutcg Accountは 「割り勘」、 Dutch Rollは 「千鳥歩き」などなど。何故 "DUTCH" がからかいの言葉になるのかについては、17世紀英国が海上で勢力を伸ばそうとしていた頃、世界各地でオランダが英国と激しい覇権争いをしたので 「オランダ憎し」 の感情からそう云う英語が多いと 「物」 の本にはある。丁度、大英帝国の伸展と共に、英語の語彙が増え影響力も増大していた頃の話なのだろう。

今でも、オランダはヨーロッパでは一流の海運国で、たまたま私はロッテルダムの海運会社とこの2年程仕事で濃密に付き合っているのだが、一口で云うと 「タフ!」。浪花節が判らないでもないのに、最後は引き下がらない。海運業界ではギリシャ人とオランダ人は同じヨーロッパの人達からも、「ああやっぱりあいつらはエグイね」 と云われる様な存在であるらしいのだが、DUTCH がからかわれるのもこんな硬い気質が理由なのか。

そんなオランダ発祥の代表的な客船会社は HOLLAND AMERICA LINE、ロッテルダム号やニューアムステル号など、古くから大西洋を横断する多くの豪華客船を運航している名門会社で、近年はアメリカを中心にクルーズ事業を幅広く展開している。この会社も他のクルーズ船と同じく、接客スタッフはインドネシア人などアジア系、会社は実質米国の資本なのだろうが、スケルトンスタッフや運航の要所は、オランダの気風や伝統がかなり残っていそうである。仕事上で相手にすると厄介な彼らも、こちらがプリンシパルになれば実に心強い味方になってくれそうな予感もする。

HOLLAND AMERICA LINE の伝統として10万トン以上のメガシップは造らず、フリートは5万トンから8万トンの中型船のみ、リーズナブルな価格でプレミアムクラスのサービスを提供しているのも好感が持てる。何より濃紺と白に塗り分けられた船の形がどの船も大変優美で「船らしいフネ」の形をしているのがたまらない。

同社の船はロッテルダムやスタテンダムという様にオランダのダム(堰)という地名を船名にしており、アメリカ各港で行き交った際は格好良いなといつも思っていた。何時の日にか船上の客となって、今、相手方として仕事上で苦しめられているオランダ風の流儀を、今度は客として精一杯享受してみたいものだ、と密かに思っている。

写真はジュノー(アラスカ)に停泊する”ザーンダム”
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2009年2月12日 (木)

塾高エース白村君

センバツに出場する慶応義塾高校のエース・白村(はくむら)君の評判が良いのは、ご同慶の至りであるが、ネットの掲示板などを見ると、慶應高校を出たら大学に進まず「プロも視野」などと云われている。今日の毎日新聞のネット版では、「ヤクルトの佐藤由規投手にあこがれ、慶応高から初の直接プロ入りも夢見る」などと出ている。

ネットの掲示板などの真偽はどうでも良いのだが、センバツ主催新聞社の報道には、「おいおい、そんな事はないだろう」と首を傾げたくなってくる。慶應高校に入って来たという事からして、将来、神宮のマウンドや早慶戦で投げたいと言う気持ちがある、と普通は考えるのだが、高校で少々注目された位で、そう簡単に「プロでやりたい」などと本人や家族は思うのだろうか。しかし毎日新聞の記事になる位だから「煙のない所に火は立たぬ」かも知れず、実際の処はどうなのであろうか。最近の高校生の気質は、以前と随分違うのか。

かつてPL学園の桑田真澄投手が、早稲田に行くので指名しないでくれと言っておきながら、ジャイアンツの1位指名で心が変わり、早稲田を袖にした事があった。巻き添えを喰った清原選手の涙だけでなく、この行為は早稲田大学の怒りを大いにかったらしく、以後今日に至るまで、早稲田はPLから野球選手を採らなくなっている。(そんな桑田が早稲田の大学院に入ると言うのも、何かちぐはぐな感じがするのだが・・・・)

白村君も高校だけではなく、将来、六大学リーグ戦での活躍を期待されて勧誘されたはず、「プロ」云々などと言うのが単なるガセネタである事を祈りたい。とにかく落第を2年続けて放校にさえならなければ、慶應義塾の高校生は全員大学に進学できるのだから、大学卒業時点でまだ注目される選手だったら、その時にプロに進むのでも遅くはない、と思う。

慶應高校から大学に行かずに有名になったスポーツ・芸能関係人と言えば、ヤクザから作家になったあの安部譲二を思い出してしまうのだが・・・・・・。

2009年2月11日 (水)

N700系コンセント

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かつて地下鉄・銀座線などの古い地下鉄に乗ると、駅の手前で車内の電灯が消えて一瞬真っ暗になり、何となく地下の闇の怖さを感じたものである。そんな経験から架線(銀座線などは第3軌条という3本目の線路)は、電気を供給する都合で、適宜分断されていた事が良く判ったものである。何故分断しておくかと言うと、電気を供給する区間を適当な距離に分ける事で、各区間の電圧を一定にしておいたり、停電事故の際にはその箇所だけを修理する事で、他の影響を少なくする為にしているらしい。

交流と直流でやや違う点はあるものの、現代の鉄道も、変電所や変圧器から電気が供給される区間を分けて、それぞれを独立させているのだが、その区間と区間の境目をセクションと読んでいる。このセクション区間で電車が停止してしまうと、異なる電気区間の僅かな電位差をパンタグラフがショートさせて架線が溶ける事故などが起きる事もある。

新幹線に乗ると高速で走っている駅間で、冷房やモーターの音が一瞬スッとすべて消え、直後にうなりをあげてこれらの機器が再運転をする音を聞く。あれ、停電事故かな、と思う様な感じで、こんな事を東京ー大阪間で数回経験する。これは新幹線の車両がセクションを通過した際に感じる現象なのだが、いつの間にかこのセクション通過の軽いショックもほとんど感じなくなった。技術の進歩は素晴らしいものである。

さて写真は、妻が昨日大阪に日帰り出張した際、たまたまN700系新幹線に乗り合わせたそうだが、車内でパソコンができる嬉しさのあまり、記念に撮ってきたものである。N700系新幹線は普通車でも、窓際の足元にパソコン用のコンセントがありこういう注意書きがあるらしい。セクション通過の際の一瞬の停電も考慮してこういう注意書きがあるのかもしれない。

それにしても、ちょっと前までは出張で会社を出たらパソコンも携帯もなかったから、会社に呼び出されたりメールをチェックしたりする必要もなかった。 「行って来ます」 と一旦会社を出たら、出張中はどこで何をしていようと関係ない、と清々した気持ちで自由な感じを味わったものであった。せっかくアメリカ型の新自由主義経済が深刻に見直される必要が出てきた候である。日本人は出張にパソコンなど持っていかない、という(新)保守主義ビジネススタイルなどが提唱されないのだろうか?

2009年2月10日 (火)

人間の覚悟

先ごろある葬儀に参列したのだが、お焼香の後に渡された恒例のお返しに”お清め”の塩がなく 「浄土真宗では、死を穢れと考えていないのでお清めはありません」 との説明の紙が封筒に入っていた。いつも感じていた事だが、故人を偲んで葬儀に参列する事によって何故穢れるのか、”お清め”が必要なのかとても不思議だったので、何だが大変すがすがしい気持ちで帰ってきた。

折から、五木寛之の新潮新書 「人間の覚悟」 を読んでいたら 「死は汚辱でなく自然へ帰ること」 という下りがあって、日本では「死穢」と言う考えが中世の貴族社会あたりから定着してきたらしいが、浄土真宗を創始した親鸞は、そういう迷信じみたタブーをまったく恐れなかったと云う。親鸞の始めた浄土真宗では、死は穢れの世界でなく、自然へ還るごく自然の過程で、死後は光り輝く浄土に行くのだと捉える。

五木寛之によれば、人生のそれぞれの年代でそれぞれの生き方がある様に、「ベッドに拘束されて失禁したまま」 の老人でも人として生きる意味があると言う。また、そういう老人をケアすることによって、我々自身の”生”も保たれているそうだ。仏教では「菩薩行」と言うらしいが、人の面倒を引き受ける事なしに私たちは生きて行けないと言うのである。

我々が学校で習って来た西欧の合理主義は「理性」が全てにおいて優っているべきものであるから、”ぼける”と言う事は何か別次元の事であり、さらに死は幽冥を境にする畏怖の存在であると考える。しかし人間は、生まれてきた瞬間から、刻一刻と死への道を歩き、病気や別離を内包する存在であって、理性の崩壊が人間の崩壊ではないし、死が何か穢れた特別のものでもない、と五木は言う。そういう不条理のすべてを引き受けて生きているのが、人間の存在なのだと言う。

さて入院している高齢の父親の判断能力がもうない様なので、法定の諸手続きの為に医師に診断書を頼んだ処、先ごろ「認知症が進行し、判断能力はない」と言う診断書を受領したのであった。日本の最高学府を卒業し、つい半年前まで頭脳明晰であった父のベッド上の今の姿を見ると、得もいわれぬ感情も湧き上がって来るのであるが、五木寛之の 「人間の覚悟」 を読んでからは、肉親のこういう状態をも引き受けていくのが人生なのだと、少し救われた気持ちがするのである。

2009年2月 9日 (月)

メキシカン・リビエラ

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春まだ浅い寒い日々である。昨年からはき始めたパッチが手放せなくなってきて、「冷え症」とか「細胞の老化」などという言葉が脳裏に浮かぶ。ズボンの下から白いパッチがのぞくようでは、あまりにも爺むさいので機能性下着などを求めてユニクロへ行けば、今年の在庫は売り切れていて、今度入荷するのはなんと8月であるという。まあ気の早い話だ。大体、夏も冬も我慢に我慢を重ねて、もうこれ以上寒さ暑さに我慢できないと、重い神輿を上げて衣料店に行く頃には、すでに次のシーズンの服ばかりが店頭にある有様。元来、買い物があまり好きでないのに、折角一大覚悟を決め、意気込んでショッピングに来たのに、肩透かしを食うのが常である。

さてこの寒さの中、世の中は 「不景気」 の大合唱なのだが、こんな時は、飛行機に乗っても観光地に行ってもサービスが良いので,できれば大いに遊びたいものだ。おまけに円高である、海外に行けば円に換算すると昨年比10~20%引きという為替で、そもそもその定価も客がいないので値下げ価格である。

という訳で寒い日本を離れて、南の国でクルーズ三昧にふけりたいとまた夢を見る。クルーズの主な顧客であるアメリカ人も今年はさすがに財布の紐がしまって、各船、各地域でクルーズの値段も値下がりしている様である。昨夏は一度海から訪れてみたかった南東アラスカ・クルーズに乗船できたので、この春は温暖なメキシカン・リビエラにできたら行きたいと思っている。

本当は”カリブ海”なのだが、日本からはアメリカ国内の空港で乗り継がないと、乗船地のフロリダにたどり着かない。仕事でもないのに、もうダラスなどの巨大ハブ空港で右往左往し、横柄なボーダーコントロールに不愉快な気分にさせられた上に、今度は電子渡航申請もしなきゃならないと云う。この間お馬鹿なアメリカのエアーラインの窓口やアテンダントに時間をつぶされる等は真っ平なので、米国なら直行フライトがある西海岸地域が時間的に許容範囲であり、ロスかサンディエゴからのメキシコ行きクルーズがどうかな、と興味が湧くのである。

それでもクルーズだけの料金ならプレミアム船のバルコニー付きスイートで7泊で20万円ほど、飛鳥の半分の値段ですむし、ラスベガスの様なカジュアル船ならもっと安い。船旅が良いのは、一旦乗船したら後は食事、遊びのほとんどの料金が込み込み、荷物を抱えて右往左往と云う事もなく、海辺のリゾートホテルが目的地まで運んでくれるという気軽さである。後は安いエアーチケットをどうするか、という事が検討課題となる。

もう30年以上前に、実習で貨物船に乗ってロスからパナマ運河までの航路を往復した事があるが、地球儀を見れば判る通り、大圏航法で走ると北太平洋からパナマ運河経由大西洋に向かうほとんどの船がロスからメキシコの沖を航海する事になる。ここはマラッカ海峡と並ぶ船の銀座通りで、船好きには様々な同航船・反航船を見ているだけで飽きない海なのである。その上海岸に並ぶ数々のリゾート都市は、珠玉の様なたたずまいだ。

なんとか仕事の都合をつけて、パッチを脱ぎ捨てて3月辺りにメキシカン・リビエラに行ってみたいものであるが、さてどうなるやら?。できれば昨年我々がアラスカで乗った”セレブリティー・マーキュリー”と各港で行き会った”サファイア・プリンセス”に一度乗ってみたいものである。その際はせっかく少し覚えた社交ダンスを少しアメリカ人の前で披露してみたいなどと野望を抱く。日本人、パッチからタキシードへ変身す、という事で。

写真はバンクーバー港の”サファイア・プリンセス”

2009年2月 8日 (日)

のぞき坂

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東京は坂の多い町である。山の手から下町へ下る坂だけでなく、台地から中小河川に向かって急坂も多い。さてこれは東京で一番急な坂と言われているのぞき坂(別名:むなつき坂)である。場所は豊島区高田二丁目、明治通りに平行して目白台と呼ばれる関口台地から神田川へ降りる坂で、勾配は13度だそうである。アプト式の軌道で登った旧碓井峠の3倍以上の傾斜になる。

我が家からジョギングして行くと30分くらいで着くので、ここで坂道上りトレーニングを数本やったりするのだが、道行く人(登る人はほとんど居なくて、下る人が多い)は「なんとも酔狂な、ごくろうな事だ」と言う顔で見る。下り坂走も筋力強化には有効なのだが、とても怖くてできない。

この坂の下には、この辺りでは数少ない駐車場が大きいスーパーがあって、週末は時々この坂を車で下りるのだが、上から見ると50米位前を行く車が傾斜の向こう側に入った時は、車の姿が一瞬にして消えてしまうほどである。通行する車両もおそるおそると言う感じでゆっくり上下する。

雪が降ったら、スキーの道具を持って滑りに行こうかと思っている。

2009年2月 7日 (土)

ランニング地獄

3月末の東京マラソン出場の抽選に当たった妻は、初マラソンに向けて、今月は走りこみを目標にしている。最近は、ランナー向けの雑誌を買ってきては、研究・対策に余念がない。走る事が習慣になると、歯磨きと同じで走らないと週末を過ごせないような気がする、という。

彼女が走る理由に挙げる事の一つに、走り始めた頃体重が面白いように減っていった事があるらしい。当初は今から比べれば月間の走行距離が半分以下だったのに、僅か2~3ヶ月の間に体重が4キロも減ったと言う事実が、走る事への大きな励みになった事は難くない。

そんな妻であるが、最近はいくら走り込みをしても、一向に体重が減らないので「どうしてだろう?」と私に質問が来る。「一度身体がある負荷に慣れると、身体はその負荷がかかった状態で、自然に調整をしてしまうのではないか」と経験的に感じた事を話していた。

そんな私の感覚を裏付ける様な記事が、最近妻が買ってきたランニング雑誌に出ている。米国の研究所の3万人に登るランナーの7年間に亘る追跡データを基にはじきだされた研究では、仮に現在、妻が走る距離を5割増したところで体重の減少は僅か500グラムなのに対し、走るのを辞めてしまえば3キロ太るという恐ろしいシュミレーション結果になる。また一度走る事を止めたり距離を少なくして体重が増えてしまったら、それを元に戻すのには今まで以上に距離を積まなければならない、というデータも発表されている。

つまり、①始めてしまったランニングは続けないと太ってしまう ②ある処まで体重が減った場合にそこから更にランニングで体重を落とすのは大変な苦労がいる ③やめてしまえば元の木阿弥どころか再び痩せるのに以前よりもっと苦労がいる、という事らしい。

ダイエットをする際は食事のコントロールと運動の両方でとよく言われるが、このデータから見る限り、運動のみによって痩せるのはある程度以上は難しく、一度痩せても運動の負荷が少しでも下がると、体重は大きくリバウンドするという悲しい現実がある様である。

この記事を見て妻は「あり地獄のようじゃない…。半永久的に走る量を増やしていかないとこれ以上体重減らないってこと?」と落胆の声をあげる。「でも走り終わった時のうまいビールがあるし、毎年毎年着実に記録が伸びていっているから良いじゃない、オレなんかいくら走っても毎年毎年記録が落ちるばかりだよ」と初マラソンに出場する妻を鼓舞をする週末である。

2009年2月 6日 (金)

ノーブレス・オブリージ

ノーブレス・オブリージという言葉を時々新聞などで見る。どうやら「高い身分の人は名誉を重んじ、進んで苦しい義務を引き受ける(べし)」という意味で使われる様である。しかしアメリカ人の英語専攻の大学教授に聞くと、「アメリカではこの言葉は、身分の高い人のそういう気取った行為を、ええ格好しい、偽善と言う悪い意味で使う事が多い」と言う。

言葉というのは、誠に難しい。かつて毎年毎年、新たに造られる船の名前を決めなければいけない時があったが、この時は、なかなか良いアイデアが湧かないうちに命名・進水式が迫ってきて、ほとほと困った事がある。"AMAGING GRACE"などと言う、いかにも切羽詰まった日本人が考えそうな船名を付けよう、と考えた事もあったが、米国人の知人に聞いた処 「宗教が絡んだ言葉なので、船名にふさわしくない」と一蹴されたものである。その時、最後に思いついた船名が、スポーツシリーズの" ACE STRIKER"と"GRAND SLAM"であったのだが、これは我ながら何という発想の貧困さであったか。

アメリカに居た時、"Oh My God"と言うな。教養ある人間や外国人なら"Oh My Gosh" とか"Oh My Goodness" とか言いなさいと良く言われた。六本木などで、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」などと珍妙なロゴのTシャツを着た外国人を、我々がおかしく見るのと同じ感覚だろうか。もし「南無阿弥陀仏丸」などという船が日本の港に入って来たら噴飯もので、のけぞるだろうが、それと同じ様に、宗教に関連した船名は付けてはいけない様である。

そういえば、昔"GREEN SPANKER"という船があった。"Spanker"は「素晴らしい人・物」と言う意味で、数隻○○SPANKERと言うシリーズ船があったのだが、ある日イギリス人の弁護士がGREEN SPANKERという船名を見てげらげら笑い出した。彼曰く、これでは俗語で「尻の青い、スケベ男」と言う船名であると。外国語で何かを命名する事になったら、必ずネイティブの意見を聞いておかないとと、その時肝に命じたのであった。我々には格好よい名称でも、ひょっとして「この変態ブス男丸」みたいな名前が付いているかもしれない。

2009年2月 5日 (木)

山本 八郎

読売新聞の「時代の証言者」シリーズにプロ野球・最多安打の、張本 勲氏が登場している。このところ昭和36・37年の東映フライヤーズ時代の事が連載されていて、とても懐かしい。

私は、東映フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)が当時本拠地にしていた駒澤球場の近所に住んでいたが、その頃のフライヤーズは「駒澤の暴れん坊」と言われる弱小球団で、地元商店街で歯磨きなどを買うと、時々無料外野招待券を貰えたものである。野球の切符欲しさに歯磨きや石鹸を多めに買ってくれと、母親にせっついてはよく怒られた記憶がある。

そんなフライヤーズが昭和36年に巨人軍を辞めた水原監督を迎えてからは、見違える様に強くなっていった。投手は怪童・尾崎、土橋、久保田に加え、伝説の早慶6連戦を投げぬいた安藤元博、打には張本、毒島(ぶすじま)、安藤順三、それに山本八郎など個性あふれる選手がそろっていた。

なかでも張本氏も書いている、山本八郎(ヤマハチ)である。浪商出身でケンカハチロウなどと言われ、乱闘事件などの話題も事欠かなかったが、いつもチームの中心の選手であった。駒澤球場で例によって観戦していた頃である、その試合ヤマハチは捕手であったのか内野を守っていたか記憶も定かではないが、打者の打った内野フライが空高く舞い上がり、他の野手が捕球体勢に入っているにもかかわらず、彼が「俺が取る、俺が取る」と強引に割って入って、ぽろりとやってしまった。観客席からは当時のパリーグの球場の常、汚い罵声や野次が飛び交った。

記憶によると、その直後また相手のフライが、ヤマハチの方にふらふらと飛んできた。観客は、また彼が強引に球を取りに行って、何かをしでかすのではとハラハラしながら見ていると、予想どおり一旦グラブに収めた球をポロリとこぼす。これには場内が一転、失笑というか、和やかな「珍プレー・楽しみムード」に変ったのであった。

そんな元気が取り得のチームも、水原監督の指導よろしきを得て、昭和37年にパリーグ初優勝を遂げたのであるが、その当時の様子を本日付けの「時代の証言者」で張本氏は次の様に語っている。

「日本シリーズの相手は阪神でした。東映は甲子園でいきなり2連敗して、その夜寝台車で東京に帰りました。今では考えられないでしょうが、同じ列車に阪神ナインも乗っていたんです。夜9時頃です。乗った途端、阪神の選手たちはピタッと寝台の境のカーテンを閉めて寝ていました。しかし私達は、カーテンを開け 『動くナイトクラブだ!』 と叫んで 『ビール持ってこい』 『ピーナッツ持ってこい』 と言った感じで宴会が始まりました。」

「端の方のベッドにいた水原監督は、ものすごく悩んだそうです。 『こいつら、ばかか。それとも度胸が据わっているのか』 と。どなりつけようかととも思ったみたいですけど、監督は 『よし、この若いやつらにかけよう。このくそ度胸にかけてみよう』 と考え直し、注意しなかったんです。」

「”暴れん坊”と言われた東映らしさを重視した放任主義が当たり、チームは第3戦で引き分けた後、何と4連勝。日本一に輝きました。」

まだ世の中がのんびりしていた良き時代であった。駒澤球場はなくなりオリンピック公園になったが、私の記憶に残るフライヤーズと、張本氏が新聞に書いている当時の実状は同じであったなと、「時代の証言者」を読んで、思わずにやっと笑ってしまった。そう言えば日本シリーズ優勝パレードに、深沢の合宿所まで付いて行って、帰宅がひどく遅くなり両親を心配させたなあ。
張本氏風に言わせれば 「喝 !」 である。

2009年2月 4日 (水)

記憶の引き出し

この春で90歳になる父が入院している。今日現在、体調に差し迫って危険があるわけではないのだが、加齢の為に徐々に生命力が衰えて行っている様である。日中はうつらうつらしている事が多く、時々一人でぶつぶつとベッドで何かを呟いている。

良く聞いていると「ゴルフの迎えの車が来るから早く洋服を出しなさい」と母に言っていたり「それを言うと大臣の首がとぶので、そこの処は穏便に何とかしていただけないか」等と役所時代の事を喋っている事が多い。どうやら父は第一線で活躍していた40歳代の役人だった頃に戻って、記憶の中を日々遊泳している様だ。時々国会で政府委員として答弁したそうだが、その当時に戻って、盛んに議員相手に説明をしている時もある。

ふと現実に戻った時に、家族が 「そんな事を一生懸命言っていたよ」 と言うと 「そうかな~」 と言って笑ったりするが、またすぐうつらうつらと眠りに落ちる毎日である。

こういう父の姿を見ていると、人間の記憶というものの不思議さに驚く。つい最近まで、しっかりしていた時は、現実的で過去の事などは振り返らない人であった。ましてや40年も50年も前に経験した仕事の細事などは、意識の中からすっかり消し去られていた様に見えたのだが、実はそれは脳の中のどこかのセルに然と格納されていたのであろう。

人間の脳は、「引き出し」の様なもので、記憶はそれぞれの 「引き出し」に収納されていて、必要に応じてそれを出してきたり、しまったりする、という学者の話をテレビで聞くが、現実にこういう父の姿を見ると、そういう喩えが実感として迫ってくる。人生も終盤になるに従い、小さい頃に体験した事が 「引き出し」から出されて記憶として蘇り、一方昨日や今日の出来事は、「引き出し」には収められずに忘却の彼方に行くのだろうか。はたまた最近の出来事を収納した記憶の 「引き出し」は、すぐに錆付いて鍵が開かなくなってしまうのだろうか。若い頃の事を思い出している時間が、父は圧倒的に長い様だ。

閑話休題 (それはさておき)、幼児のときに受けた性的問題が記憶の底にしまい込まれて、長じて心の病の原因になるという説をフロイトは唱えた。父の例とは状況がまったく違うのだが、無意識の領域に蓄積された記憶に関するこういう現象を間近で見ると、フロイトのリピドー説もなるほど、とふと思うのである。

2009年2月 2日 (月)

REVERTING

大学時代の成績は、超低空飛行であった。会社に入る時、役員面接で「ところで、筆記試験はできたかね?」と問われ「ハイ~!」と威勢良く答えたら、「これでできたのかね?フーン!」と呆れられたのであるから、我が学力がわかろうと言うもの。

そんなまま会社に入って、いきなり海外から始終電話がかかって来る営業部門に配属になってしまった時には、大いに面食らったものである。当時はオン・ザ・ジョブ・トレーニングなどと言って、研修もないままにいきなり実践の場に放り出されたものだから、たまったものではない。時代は高度成長期、会社が年々大きくなって人手がまったく足りない状態、他の業界からの中途入社組も混ざって、多数の新入社員が右往左往していて、何とも活気があったというか、めちゃくちゃであった、と言うべきか・・・・・。

この海外からの電話、皆一様に苦労させられたもので、当時の事を思い返すと笑い話には事欠かない。現在大手の海運会社の常務取締役を堂々と張っている同期は、たまたま電話中の職場の上司にかかって来た国際電話に「彼は電話中」というつもりで”He is telephone"と大声で答えて周囲の爆笑をかった。別の若手は、海外からの電話に「そんな人はいません」と日本語で答えるや、いつも脱兎の如くトイレに逃げていたと言う。相手は間違った番号にかけたと考え、直後に同じ番号に電話をかけ直すので、トイレに隠れている間に誰かが電話を取り次いでくれて、用件を済ませてくれるは、自分は巻き込まれないで済むは、であったと云う。数十年経った今では、彼はこの業界の中でも立派な国際派なのだが、今でも「あれは頭良いやり方だっただろう」などと自慢をする。

当時、外地とのコミュニケーションはテレックスが主だったので、一日の業務のかなりの部分はテレックスとの格闘。「港でギャングの到着が遅れ・・・」などと言う海外からのテレックスをみて仰天したものだが、これは「港湾労働者の一団がなかなか来なかった」という事。REVERTING (後で連絡する) , ASAP (AS SOON AS POOSIBLE), THERE4(THEREFORE) その他諸々、辞書にもないテレックス用語に散々苦労したものである。

最近はE-MAILが普及して担当者が直接メールを取引先に流している様だが、当時はどの職場にも鬼軍曹の様な先任がいたものである。この鬼軍曹の検閲を受けないと、テレックスの原稿が、テレックスオペレーターの手許に行かないシステムになっていたのだが、この先任なべて英文法にやたらめったら厳しくて、若手は苦労したものである。
INSTRUCTIONの末には必ずSをつけろ、CONTACTは他動詞だからWITHやTOをつけるな、とか口すっぱく怒られたのだが、今から思い返すと本当にあり難かった、と感謝するのみである。

最近は顧問として海運会社の若手のメールを見ながら「こう書いた方が良いのではないの?」などと偉そうに指導らしき事をしているが、その昔、私が書いておずおずと課長代理に提出したテレックスの原稿は、中味が全部赤ペンで書き直されていて、残ったのは相手の宛名とBEST REGARDSという結びの句だけであった、と言うのが真実なのである。

2009年2月 1日 (日)

大和プロジェクト

新聞報道によると、太平洋戦争末期、沖縄特攻作戦の為、鹿児島県・坊の岬沖で沈んだ戦艦「大和」の主砲などを引き上げる構想が、旧母港の広島県呉市で持ち上がっているそうだ。本来は沈没した船体全部を引き上げたいのだが、費用的に見通しがたたない為、艦の前部や主砲のみが対象になるが、それでも費用は数十億円かかるそうである。

呉は仕事で良く訪れる場所で、大和を造った旧海軍工廠の後に、今は大きな民間の造船所があり、海上自衛隊の基地や、大和ミュージアム、てつのくじら館(海上自衛隊資料館と潜水艦の展示)など、旧海軍鎮守府の名残をあちこちに感じて、こんな運動が盛り上がるのも納得できる。

しかしフネに限らず、鉄道などの保存車両でも感じるのだが、ノリモノはやはり”動いてなんぼ”の物である。いくらきれいに保存していても、最早その機能を失って展示されている車両などは、魂が抜かれた鉄の塊に過ぎないとしばしば感じるものである。大和も仮に主砲や前部の構造物が引き上げられ、修復再現されてもそれは「博物館の展示物」に過ぎないのではないだろうか。

それよりむしろ、あらたに大和を再現した同じサイズのフネを建造したらどうであろう。呉には大和を造った造船所もある。軍事機密で設計図などは焼却されているのかもしれないが、何かの手がかりは残っているだろう。何も当時と同じ厚さの装甲用の鉄板を使用したり、防火隔壁を造る必要はない。一般商船用の厚板を使い、エンジンもディーゼルエンジンの2万馬力程度で充分。引き上げた主砲一門だけは見学用に甲板上に置いて、それ以外の装甲はもちろんイミテーション。長さ263米、幅37米位の商船なら今では建造費は50億円くらいだから、この新「大和」100億円もかければ一応格好がつく模擬の戦艦になるのではないだろうか。国民一人が100円程度の負担をすれば良い。完成後のメンテナンス費用も乗り組員はボランティアを募って動かせば年1億円くらいであろうか。週末などは瀬戸内海で体験航海を実施し、燃料代は乗艦者から徴収できないものか?

いくら偽物とは言え、旧大和と同じ大きさの巨大戦艦が瀬戸内海の波を切って進んだら、どんなに素晴らしい事だろうと想像する。大艦巨砲主義から航空機主戦にいち早く目をつけ真珠湾攻撃に成功しながら、その後幾多の迷妄を重ねた帝国海軍。マリアナ沖海戦で連合艦隊が事実上壊滅した後もシンボルとして後方に控え、遂には沖縄特攻作戦に従事し、東シナ海の藻屑と消えた当時のエース「大和」、その技術的な完成度と戦争の悲惨さ、歴史の再点検の為に、「大和」再現の国民運動などができたら良いのにと思う。

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