通勤は馬で
高齢の父が入院していて、時々意識が混濁する。思い出すのは子供の頃の事らしく、眠りから覚めると昔の事を断片的に話してくれる。そんな話を聞いて、たまたま四年前に越してきた現在の住まいのすぐ近くにかつて祖父や父が長く暮らしていた事を知った。
祖父は医者で、大正時代のなかばに官費でスイスに留学し、陸軍軍医学校の教官を勤めていたと言う。陸軍軍医学校は新宿区戸山にある現在の国際医療センター(旧国立第一病院)の一隅にあって、祖父母一家は当時、大久保駅近くに住んでいたらしい。今の大久保通りを、馬に乗って大久保二丁目から戸山が原を通り、軍医学校に通勤していたとの事。東京が空襲されていた際には、庭に箪笥や家財道具を埋めて西荻の方へ逃げていたのだが、焼け野原になった元の場所に戻ってくると、既に他人が焼け跡にバラックを建てて占拠していたと話してくれる。そう言えば今の大久保や新大久保の辺りは、韓国人街の様になっているが、戦中・戦後にはそういう歴史もあって今の街並みがあるのだと認識を新たにする。
祖父は軍医学校の教官を勤めるとともに、東京帝国大学の医学部の教授でもあったのだが、祖父の軍位であった軍医少将の方が東大教授より格上で、公式の行事はすべて軍人として招待されたと言う事も父がぽつりぽつり話してくれる。そんな関係で戦後は公職追放に遭って東大を去り、武蔵野赤十字病院などの発展に尽力した。私が小さい時分、何かの病気になった時は、当時、武蔵野赤十字病院でまだ勤務をしていた耳鼻咽喉科医の祖父に診察をしてもらった事もあった。孫には優しいおじいちゃんだったが、軍人気質なのだろう、追悼文集に東大の教え子たちは「とにかく厳しい先生だった」との原稿を多数寄せていた。
それにしても、世田谷方面からの帰り道にクルマで良く通る大久保通りの明治通りから戸山公園のあたりを、その昔祖父が軍馬に跨って毎朝毎夕闊歩していたかと思うと感慨深い。何か不思議な地縁があるような気もしてくる。
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