夜と霧
眠れぬ夜、眼が冴えるままベッドから起き出して、何か落ち着いて読める活字はないかと思いつつ本棚を物色する。そうしている内、昔のメモ帳を見つけてパラパラと繰ってみると「『夜と霧』読後感」と言うメモを発見する。そうだ、第2次大戦中ナチスのユダヤ人強制収容所での体験を綴ったフランクルの「夜と霧」を読んで、色々考えさせられた事があったと思い出した。
ユダヤ人の精神科医であったフランクルが、強制収容所に収容された想像を絶する体験を通じて、人間の存在・尊厳を考察した「夜と霧」は戦後ベスト・セラーになり、今も多くの人生論やカウンセリング本の類に引用されている。私と言えば、これでも結構悩み多かった青春時代に、どこからか知ったフランクルの名前であるが、まだその代表作「夜と霧」は読んだ事がなかった。
今から10年ほど前だろうか、再び凡夫なりにいろいろ悩んでいた時に、彼のこの本を読みたいと思い出し、書店で買い求めたのだった。
ナチスのユダヤ人強制収容所に於いて、ガス室に送られるかどうか、自分の生死が「ほんのきまぐれ」に翻弄され、常に死の恐怖に直面する境遇で、フランクルはいかに人間は人生に立ち向かえるのか、最悪の環境の中でも、人間が尊厳を保ち、精神の自由を獲得する事ができるのかを考えている。その様な境遇にあって、最後まで人間としての尊厳を保つ行動をする事も出来るし、自暴自棄の行動を起こすのも同じ人間なのである。
フランクルはその苛酷な体験から、「私たちは生きて行く事から何かを得る事を期待するのでなく、生きていく日々の行動が私たちに何かを期待している」と言っている。我々が人生の逆風や悩みの中にあって唯一救われるのは、その苦悩にぶつかり、その中で人間として日々正しい行為を営々と積み重ねていく事のみなのであろう。その行動そのものが救いであり、それを通じてのみ真の精神の自由を得られるのだと言う。
「人間とは何かを決定する存在だ」とフランクルは書いている。自己の良心に基き人間としての尊厳を保つ事ができるのも人間であるし、収容所でユダヤ人を虫けらの様に扱う事が出来るのも人間なのだ。どちらの選択肢も等しく人間の前に提示されるが、そのどちらを採るか、いつも「生きていく行動が、私たちに迫っている」のが人間の存在なのだそうである。同じ様に過去の失敗もそれを踏まえつつ、今をいかに生きるかに依って、その失敗が生きているのだという趣旨の文を彼の別の著作で見た記憶がある。
フランクルを読んで以来、何か心に迷い事がある時 「いつの時も、自分がいかに生きるかは、人生から自分が問われているのだ。良く生きるとは、日々活かされている事に感謝しつつ、人生を常に良くあらしめる様に活動する事なのだ 」という様な気がしているのだが、他方、実社会でピンチになるとそんな考えはどこかに消え去り「どうしよう、どうしよう」とおろおろ悩むのも、これまた凡夫の常なのである。伝統的習俗や宗教のくびきを離れて、実存の世界、自己責任の時代に生きる現代人は、歴史的にはそれなりに大変な時代に生きているのかもしれない、と思ってくる。
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