江戸散策その1
4年ほど前、神奈川県民から25年ぶりで東京都民に戻り、山の手線の内側に住む様になった。今では都心の道に不案内という事もなくなり、大分土地勘もついてきた。東京でタクシーの運転手をやっていくには、得意な地域をもった上、全体がわかればなお良いと運転手に聞いた事があったので、そういう意味では運転手の嫌いな狭い元農道などが多い世田谷・目黒など東京西郊を中心として、都心でも良し、今やっている職にあぶれたらタクシーの運転手をやってみるか、などと言う甘い考えが”ちら”と頭をかすめる。
そんな気持ちで都心をジョギングしているうち、あちこちの名所や旧跡、案内板に目が向く様になる。注意してみると東京の中心部には、江戸時代の史跡などを解説した案内や表示がとても多い事に気が付くが、それら解説を立ち止まって見ていると、いつの間にやら江戸市中の事に興味が湧く様になってきた。そんなわけで時間があると江戸東京博物館や、下町風俗資料館・深川江戸資料館にぶらり寄ってみたり、江戸の古地図や地形図を買ってあれこれ「いにしえ」を想像してみるのも、また「いと楽し」という心持ちになってきた。
先週の週末は、我が家からコンパクトデジカメを持って、妻とジョギングかたがた本所松阪町の吉良上野介亭に行く事にした。往復で10キロ超、気候も良く丁度良い散策ジョギングだ。道中、江戸の名所をデジカメに収めつつチンタラ走りながら写した写真の一枚がこれである。この掘割は神田川で上流から下流に向けて撮ったもの。この川は井の頭公園に源を発し、途中で善福寺川などの支流を集め、水流の一部を神田上水に供給して江戸市民の水源となっていた。
当初この川は飯田橋と水道橋の中間、丁度、現在後楽園の場外馬券売り場からやや飯田橋寄りの場所 (写真の地点) で南(右方)に向かい、かつては江戸城の東、現在の大手町や日比谷近辺まで来ていた東京湾に流れ込む川であったそうだ。しかし江戸時代初期に江戸城の守りや水害対策で、この飯田橋/水道橋間で新たに真東方向(写真では間真っ直ぐ方向)に水路を造り、神田駿河台を掘割で越えて隅田川に注ぐ運河を幕府が造ったのだが、これが現在神田川と呼ばれている。 この結果、もともとあった川筋はその後、日本橋川となり、日本橋近辺から隅田川の下流に注いでいる訳である。
この写真は神田川と日本橋川の分流点を写したもので、向かって右側が旧来の川筋で今は日本橋川と呼ばれる川、左側が江戸初期に東に向かって掘削された現在の神田川である。それにつけても江戸開城を機に、荒川や隅田川の治水、神田川の付け替えなどの大工事を行い、上水道を整備した江戸幕府。水を制するものは天下や民を制する、という気持ちが現われていたのであろうと想像するのである。
« 神宮経由甲子園 | トップページ | 江戸散策その2水道橋 »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 播州赤穂 訪問(2024.07.14)
- 「海里」(上り)乗車(酒田・海里の旅③)(2024.05.22)
- 酒田探訪 北前船 (酒田・海里の旅②)(2024.05.20)
- 五月雨を集めて早し最上川 (酒田・海里の旅①)(2024.05.19)
- 箱根は花盛り(2024.04.15)
コメント