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2008年11月

2008年11月29日 (土)

田母神論文、どこが悪い!

雑誌「WILL」の最新号に「田母神(前空幕長)論文」全文が掲載され「田母神論文、どこが悪い!」という総特集が組まれている。面白そうなので早速書店で「WILL」を購入してみた。

まず問題の田母神論文を一読してみたが、しごくまっとうな事が書かれている。メディアによると 「日本は侵略などせず、戦争に巻き込まれた」 と言う氏の視点が批難されている様であるが、そういう面も先の大戦にはあったと思うので、論文発表の手続きとしての妥当性はさておき、中味については何故それほどバッシングされるのか私には良くわからない。 逆に航空幕僚長と言う仕事の傍ら、広く文献にあたり良く纏めているな、と感心する。

あの時代、西欧の列強と共に、日本も主体的に「侵略行為」をした事は否めないだろうが、中国やアメリカの陰謀に巻き込まれていった面も、多々あったに違いないと私は思っている。それが世の常である。またあの帝国主義の時代には、列強各国がこぞって侵略行為を世界で展開しており、その中で日本だけが際立って悪行を働いてきた訳でもないだろう。むしろ日本は、この論文にもある様に、士官学校に植民地の子弟を入学させたり、韓国や台湾に帝国大学を開いたりと、他国にない融和的な植民地の経営をしてきた事も、広く知られている処である。

一方、米国は日露戦争の直後から日本を潜在的な敵とみなし、対日戦の準備をしている事、日本の真珠湾攻撃を、ルーズベルトが米国参戦の絶好の好機と捉えた事などは、間違いのない事であろう。日本が悪であり、戦勝国の連合軍が正義の味方であるかの様な、戦後の東京裁判的な論調はあまりにも偏りすぎていないか。

それと共に、祖父の代の日本人は何か別世界の人逹で、まるで大陸で悪業ばかりを働いた様に蔑む事は、事実はもとより心情的にも到底受け入れ難いし、「一部の軍部の暴走」と言う批判も、そうとばかりは言えない国民的な支持が当時多々あったであろう。結局の処、世界の帝国主義社会の中で、遅れて開国した日本は、不可逆的に戦争への道を進まざるを得なくなり、同時に国際社会の厳しい渦の中に引き摺りこまれていったと言う「両面」がある、と言うあたりが真相ではなかろうか。ひとことで言えば「日本は(本来の否定的な意味での)ナイーブすぎた」と言う事ではなかったかと思うのだが・・・。 

私はその様に考えるので、田母神論文を読んでもなんら違和感なく、懸賞で選ばれただけの事はある、と思ったのだった。

ただ枝葉であるが手続き論として、懸賞への応募というのは拙かったのではないか。例えば過去に公害を出した事を社長が謝罪した上場企業が、今「エコ」や「環境にやさしい」と言う点で自社製品を売り込んでいるとする。その環境対策部門の長が、社長の発表と違って「あの時代は皆がやっていた、むしろあの時代としては注意している方だった。あの公害が本当にわが社から出された廃棄物のみで起こったとは、本当は科学的に証明されていない」 などと、その時点の事実であっても個人の意見を公の論文にすれば、やはりバッシングされるであろう。 「唇寒し秋の風」という事か。

今回の騒動、せっかくの論文である。田母神氏は、自衛隊を辞めてから懸賞論文に応募されれば尚良かった、と残念に思うのだ。

2008年11月28日 (金)

夜と霧

眠れぬ夜、眼が冴えるままベッドから起き出して、何か落ち着いて読める活字はないかと思いつつ本棚を物色する。そうしている内、昔のメモ帳を見つけてパラパラと繰ってみると「『夜と霧』読後感」と言うメモを発見する。そうだ、第2次大戦中ナチスのユダヤ人強制収容所での体験を綴ったフランクルの「夜と霧」を読んで、色々考えさせられた事があったと思い出した。

ユダヤ人の精神科医であったフランクルが、強制収容所に収容された想像を絶する体験を通じて、人間の存在・尊厳を考察した「夜と霧」は戦後ベスト・セラーになり、今も多くの人生論やカウンセリング本の類に引用されている。私と言えば、これでも結構悩み多かった青春時代に、どこからか知ったフランクルの名前であるが、まだその代表作「夜と霧」は読んだ事がなかった。

今から10年ほど前だろうか、再び凡夫なりにいろいろ悩んでいた時に、彼のこの本を読みたいと思い出し、書店で買い求めたのだった。

ナチスのユダヤ人強制収容所に於いて、ガス室に送られるかどうか、自分の生死が「ほんのきまぐれ」に翻弄され、常に死の恐怖に直面する境遇で、フランクルはいかに人間は人生に立ち向かえるのか、最悪の環境の中でも、人間が尊厳を保ち、精神の自由を獲得する事ができるのかを考えている。その様な境遇にあって、最後まで人間としての尊厳を保つ行動をする事も出来るし、自暴自棄の行動を起こすのも同じ人間なのである。

フランクルはその苛酷な体験から、「私たちは生きて行く事から何かを得る事を期待するのでなく、生きていく日々の行動が私たちに何かを期待している」と言っている。我々が人生の逆風や悩みの中にあって唯一救われるのは、その苦悩にぶつかり、その中で人間として日々正しい行為を営々と積み重ねていく事のみなのであろう。その行動そのものが救いであり、それを通じてのみ真の精神の自由を得られるのだと言う。

「人間とは何かを決定する存在だ」とフランクルは書いている。自己の良心に基き人間としての尊厳を保つ事ができるのも人間であるし、収容所でユダヤ人を虫けらの様に扱う事が出来るのも人間なのだ。どちらの選択肢も等しく人間の前に提示されるが、そのどちらを採るか、いつも「生きていく行動が、私たちに迫っている」のが人間の存在なのだそうである。同じ様に過去の失敗もそれを踏まえつつ、今をいかに生きるかに依って、その失敗が生きているのだという趣旨の文を彼の別の著作で見た記憶がある。

フランクルを読んで以来、何か心に迷い事がある時 「いつの時も、自分がいかに生きるかは、人生から自分が問われているのだ。良く生きるとは、日々活かされている事に感謝しつつ、人生を常に良くあらしめる様に活動する事なのだ 」という様な気がしているのだが、他方、実社会でピンチになるとそんな考えはどこかに消え去り「どうしよう、どうしよう」とおろおろ悩むのも、これまた凡夫の常なのである。伝統的習俗や宗教のくびきを離れて、実存の世界、自己責任の時代に生きる現代人は、歴史的にはそれなりに大変な時代に生きているのかもしれない、と思ってくる。

2008年11月27日 (木)

長崎皿うどん太麺@佐世保

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これは佐世保で食べた長崎皿うどん「太メン」である。東京では皿うどんというと「細メン」、揚げた麺が一般的だが、長崎では揚げていない太麺もとても人気がある。太麺については観光ガイドブックによると 「ソースをかけて食べる人がいる」 とあるけれど、実は最初から大阪 「ぼてじゅう」 のソース焼きそばの様に、少し甘いソースで炒めた太麺が多い。私はこのソース味の太麺が大変好きなのだ。

小学校5年生の時、初めて父に連れられて来た長崎市で、お昼に食べたこのソース味の太麺の味は忘れられない。あまり食べる子供ではなかったが、これだけは大きなお皿をペロリと食べたのだった。長じて仕事で進水式などで長崎市に来る機会があると、タクシーの運転手に 「うまいソース味の太麺の店に連れて行ってくれ」 と頼んだものである。

今回の旅で佐世保で食べたこの太麺は、残念ながらソースの味付けがしていなくて、細麺と同じ味のあんかけ具が乗っていた (ソースはテーブルに置いてあり、お好みで、という感じ)。 このお店がそうなのだろうか、長崎市と佐世保市で味付けが少し違うのだろうか、こういう事は、店に入る前にタクシーの運転手等に 「ソース味の太麺の美味しい店はない?」 などと良く聞いておくべきだと思いつつ、長崎県観光記念にとたっぷりソースをかけて食べてしまった。

2008年11月26日 (水)

佐世保バーガー

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佐世保は 「ハンバーガー伝来の地」 だそうである。昭和25年頃、佐世保に駐留していた米海軍が広めたのが、わが国のハンバーガーの始まりと言う。当初は、アメリカ人用に売られていたが、日本人の口にも合うよう佐世保風にアレンジされたものが、現在の 「佐世保バーガー」 に繋がっているそうだ。

ここでは手造りで地元食材を使い「一定の基準」をクリアーしたハンバーガー屋さんは、「認定店」としてアンパンマンの様なキャラクターのスティッカーを店の前に誇らしげにディスプレイしている。 今や佐世保と言えば 「ハンバーガー」 だそうで、なにやら「餃子」で売り出した宇都宮を彷彿とさせられる。

まあ宇都宮なら、東京から新幹線やクルマでもちょくちょく行けるが、佐世保はちょっとやそっとでは行けない。せっかくの旅の空で、今更ハンバーガーでもない様な気もするが、そこはそれ、名物ならばと「認定店」!!、駅前の 「ホテルトリニティー佐世保」で試したのが写真の「復刻バーガー」である。

「復刻バーガー」は、「佐世保に伝来した当時を再現」との事で日本人が食べやすい様にしたのだろう、牛肉のうす焼き+トマト+たまねぎ+レタスのバーガーである。肉がハンバーグでない処がやや肩すかしではあるが、ちょっと「モス・バーガー」的な感じで、「これもまた良しかな」の食感であった。

東京にいると、長崎は西方の遠い地だが、かつては平戸、出島など唯一海外に開かれていた土地だけの事はある、カステラを始め「モダーン」という香りのする食文化が伝来した土地である事を今更ながら再認識する。何より町中の食べ物が皆うまそうで、かつ物価が安い事が嬉しい。復刻バーガーを食べた後、佐世保の繁華街を散歩しながら入ったマクドナルドの、”シナモンメルト”さえ何か東京より美味しく感じたのだった。

2008年11月25日 (火)

下世話 (げせわ) な話

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佐世保を訪れた。以前この地に来たのは45年前で、坂の多い町だという事以外は記憶もおぼろである。

今回、私の広島出張と妻の長崎出張がたまたま重なった後、ちょうど3連休に入るので、これはお互い真っ直ぐ東京に帰る手はあるまいと思っていた処、妻が旧海軍4鎮守府の内、横須賀・舞鶴・呉は行った事があるが、めったに行く機会のない佐世保にこの際行ってみたいと言う。自衛隊関係者でもないけれど、こんな旅の動機があっても良いかと思い、はるばる来たのだ。

さて連休初日、定番の九十九島巡り遊覧船を楽しんだ後、妻の行きたかった海上自衛隊佐世保資料館の立派な展示を見学、2日目は自衛艦 「おおよど」 の一般公開に行く事にした。妻は、せっかく佐世保に来たからには、海上の守りの要衝を徹底的に体験しようという心意気の様だ。

ただ今まで、各地で自衛艦の体験航海や一般公開の際に感じた事だが、当直の隊員に質問しても、満足の行く答えが返って来ない事がある。例えばフネの仕事をしていると一番燃費が気になるものだが 「機関部の偉い人」 に 「良く知らないんです」 と言われて面食らった事がある。また機関砲の砲身が熱くなるというので 「では何分位連射できるのか」 と聞くと 「うーん、それは・・・・」 など、およそ民間の工場見学などでは考えられない様な頼りない答えである。

戦時に燃費を考えては戦えないだろうし、縦割りの組織で兵器の答えもできないのかもしれない。防衛秘密の部分もあって 「なんか色んな事を聞いてくる変なヤツ」 と先方が思っているのだろうか。 かつて、アメリカで元空軍のパイロットに航空ショーに連れて行ってもらい、現役の軍用機を色々見た事があるが、その際感じた米軍の開放的な対応と、わが国の自衛隊のそれとは些か違う様である。

なので今回は、作戦を変えて技術的な質問は控え 「自衛隊での人事異動」 とか 「艦内でいやな奴と一緒になった時どうするのか」 とか 「酒が艦内で飲めないのは大変ですね」 など一般のサラリーマンが喜びそうなネタに振って幾つか質問してみた。すると答える方も一転滑らかな口調で、彼らの様々な体験などを話してくれる。こちらが聞いていない家族の話や 「内輪」 の話などをしてくれて、これはこれでなかなか面白かった。

ちょっと警戒気味の相手には、人事異動や家族の事など 「下世話」 な話から入ると話が弾んでくるのだな、と艦上で改めて感じ入ったのだった。それにしても市民との交流や、自衛隊への理解を深めてもらう事が重要なのだろう、いつもはにかんだ様にそして一生賢明答えてくれようとする艦の当直者たちへは、感謝するばかりである。

2008年11月20日 (木)

とうとう やってしまいました。

とうとうやってしまいました。

明治維新140年記念・第39回明治神宮野球大会、今日は大学・高校の部、両方の決勝日である。またいそいそと午前中に「外出業務」(うそ)を作り、神宮球場に高校の部、慶応義塾高校と天理高校の「秋の日本一」決勝試合を見に行く。

前回この大会を観戦したのは、平成12年「明治神宮鎮座80年記念」の第31回大会・大学の部だったろうか。東京六大学リーグ戦を制した慶応義塾大学は、投手に山本省吾(現オリックス)長田秀一郎(現西武)らを擁し、決勝で現巨人軍の久保がいる首都大学リーグ代表の東海大学を、延長の末破って優勝した年だった。この時は私もまだ大手海運会社ご本社の管理職だったから、神宮球場で観戦しつつも、延長戦が延々と続くわ、仕事は会社に残してくるわ、会社には「行方不明」という事になってるわで(当時は携帯も必携ではなかった)結構やきもきして観戦していた事を思い出す。

今は晴れて自営業、業務に支障がない限り誰の咎めもないのが幸い、関東地区大会決勝(保土ヶ谷)・明治神宮大会の2回戦・3回戦と観戦を続け、今日の決勝を迎えたわけである。大学の部はいざしらず、なにしろ高校が関東で一番になって明治神宮大会に出られるなど、往時から考えれば晴天の霹靂、これは何としても仕事の都合を付けなければならないと、深く決心したのである。

ただこういう日に限って肝心の仕事が結構あって事務所をなかなか出られず、10時半試合開始なのだが、球場についたのは既に3対0でリードしてる1回裏だった。2回にはもう1点取って「しめしめこのまま快勝すれば今日もうまい酒が飲めるわい」と思っていたがそうはいかない。1年生ピッチャーのコントロールが定まらずテンポが悪いのだろうか、はたまた試験期間中で練習がままならないのだろうか、守備のエラーが多くあっと言う間に4対4の同点に追いつかれる。さてこんな日に限って取引先と会食があって、正午には銀座まで戻らねばならない。遅い試合のテンポをのろいつつ同点の場面で、今日は球場を4回で後にしたのだった。

会食が終わってネットで調べると、8対6で慶應高校は、天理高校を突き放し秋の高校日本一になったそうで、今日は妻が出張している自宅で一人で祝杯である。全国規模の野球大会で優勝したのは92年前の夏の甲子園以来だそうだ。こんな子供たちが、あれよあれよと言う間にとうとうやってくれました。

一年生ピッチャーのコントロールなどいくつか課題はあるが、彼らもついこの前までは中学生まだホンの子供である。このまま彼らが成長したらどういうチームになるか等期待は膨らむが、物事はそうはうまくは行かないのである、謙虚に力を伸ばして行って欲しい。

そして今の気分は「突っ張りハイスクール・ロックン・ロール」の気分である。
「♪電車を飛び降り、改札抜けたら球場までは猛ダッシュ、またまたさぼりで今日も呼び出し♪」

2008年11月19日 (水)

続編・もう一つの書きたいこと

一昨日、球場で落とした私の小銭入れが拾得され届けられていた事で「日本は何と素晴らしい国だ!」と書いたばかりだが、今日その話を仕事仲間に話すと彼は「俺も数年前に財布をアメリカの球場で落としたけど出てきたよ」と言う。シアトルの南にタコマと言う古くからある港町があり、そこにタコマ・レニアーズという3Aのチームがあってその球場に野球観戦に行った時の事だそうだ。

私もアメリカの球場は、全米各地、随分観戦に訪れたものである。メジャー・リーグだけでなく3Aや1A級のマイナーリーグ球場も幾つか行った事がある。メジャー・マイナーを問わず、どこでも7回の地元チーム攻撃時にはセブンス・イニング・ストレッチ"Take Me Out To The Ball Game"のメロディが流れ、観客席ではピーナッツ売りが忙しく動きまわる。売り子がアクロバティックにピーナッツ袋を放り投げると周囲の観客がどっと沸くのは、全米どこでも見られる光景だ。

食べ終わったピーナッツの皮は、座席の下にそのまま食い散らかしていくのがベースボール観戦ボール・パークのお約束である。試合も後半になると座席下にはピーナッツの皮と、ビールのカップ、ナチョなどの食べ残しが散乱し汚い事おびただしいが、それも又ベースボール文化の一部。

さて彼は、帰り際、落とした財布がそのピーナッツの皮のごみの山に隠れてしまい気が付かなかったそうだが、届けておいたら後で掃除の際に発見されたらしい。タコマというと古くから日本人の移民が多かった町だが、最近は他のアジア系の住民も増えて、町の治安はあまり良くない所だ。そんな町でも財布が戻って来た話を聞くと 「古き良きアメリカ」 がまだまだ健在なのだ、と改めて驚いたのだった。

さて、肝心の私の小銭入れだが、神宮球場に取りに行くかたがた、今日も昼間の第2試合の慶應高校 対 北海道代表・鵡川高校の試合を観戦。ただ第1試合が延長にもつれこんだので第2試合の開始が1時間も遅れやきもき。さすがにあまりさぼっていると、午後の仕事に差し障りがあって、6回に後ろ髪をひかれつつ球場を後にしたが、後でネットでみると慶応の快勝。明日はいよいよ日本一を目指して天理高校と対戦。明日はちょっと仕事さぼれないし、嬉し悲しの心境だ。

2008年11月18日 (火)

B.L.T

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海外、特に欧米のレストランに入った時、困るのはメニューの選択だ。あれは何字体と言うのだろうか、蛇がのたくった様に印刷された活字に、訳の判らないフランス語風な料理単語の羅列を見ると、ほとんど思考停止状態におちいるのは、私だけではないはずだ。で、しかたなく「パスタ○○」とか「リングイニ○○」など、何となく語感から想像が付きそうな料理を頼んで待つことしばし、大体出てくる料理は想像を絶している事が多い。

私はアメリカに出張した際など、レストランで絶句しない為に「クラブ(蟹)ケーキ」が安全牌だと思っているのだが、妻は「ステーキ」が想像したものとさして違わないと主張する。なので二人でアメリカに行った時にはクラブ・ケーキとステーキのコンビネーションを取り分けているものの、そのうちこれにも飽きてきて「日本食に行くか」「中華はないのかな」と言うのが常である。

その中で昼食などの際、間違いのない選択アイテムの一つに「B・L・T」がある。ご存知ベーコン、レタス、トマト・サンドウイッチだ。ボリュームが多いかどうか、マヨネーズやケチャップの量、添け合せなど店によって差はあるが、海外で昼メシに困ったらB・L・Tはお勧めだ。

最近、昼休みに京橋の職場の近所を散歩していたら「手造り・自然食ハムの店」と言う小さな店の前を通りかかった。それとなく店内をのぞいて見ると「手造りスモークド・ベーコン」が売られている。常日頃、日本のスーパーで売られているベーコンは、化学処理をされているだけで欧米の様に充分スモークされていないのが不満だったから、思わず立ち寄ってしまった。「ここのベーコンを買って、フライパンでかりかりに焼いてB・L・Tを作ってみたい」と想像しただけでよだれが出てくるのは、我ながら賎しいものだと苦笑いする。

で、買ったベーコンをもとに作ったB・L・Tがこれである。カリカリに焼けて油が落ち、程良くスモークされたベーコン(無添加とだけあって塩味不足、このベーコンには少し塩を振った)、レタスとトマトをトーストに載せてケチャップ・マヨネーズ・塩・胡椒で味付けするだけで気分はアメリカンなのである。

あっと言う間にベーコンを平らげてしまった、近々あの店にまた行ってみて、小さいポーションを買ってみよう。今度はベーコンエッグで攻めてみたい。

2008年11月17日 (月)

一つ書きたい事

今日は、一つどうしても書きたい事がある。

神宮球場で「明治維新百四十年記念・第39回・明治神宮大会」の慶應高校(関東代表)対光星学院高校(東北代表)を朝から観戦した。結果は慶應高校が4対2で快勝して、雨空にも関わらず急遽応援に駆けつけた甲斐があった、と喜んだのだった。

しかし雨が時折落ちてくる球場での応援というのは、雨かっぱを出したり傘をさしたりと甚だ落ち着かない。途中でコーヒーを買った際、雨かっぱの下から小銭入れを無理に出し入れしたのが悪かったのだろうか、気分良く神宮球場を出て十分ほど歩いた処で、小さな皮の小銭入れを球場内に落とした事に気づいた。あわてて戻ろうかと思ったが、数百円のコインが入っていただけ、再度入場券を買って探しに戻ったらその方が高いし、もし拾われてもいても、もう出てこないだろうと思いあきらめて家に帰ってきた。

ただ帰宅後、念のためダメもとで「そんな落し物がないか」と球場に電話してみると「それらしきものが届けられています」との球場職員の答え。で「中味はいくら位?」と向こうの問いに「数百円じゃあなかったかな」と答えると「千円位小銭で入ってますよ」との事。「どうしますか」と問われたので「明後日かその次の日の試合をまた見に行くので、その時、球場事務室に寄ります」という事にした。

さてこれで、明治神宮大会の準決勝も仕事をさぼって観戦に行く自分への良い口実ができたのだが、それにしても学生野球で客層が限られているとは言え、野球場で小銭入れを落としてそれが戻って来るとは、日本という国は何て素晴らしい国なのだろうか、とつくづく感じ入った次第である。アメリカの球場で財布を落とした事を考えたらまずあり得ない結果である。慶應高校の明治神宮大会初出場は「出るとは思わなかった秋のボーナスが思わず出た気分」と10月5日に書いた通りだが、今日はそれに加えて心のボーナスもいくらか貰った気持ちがしたのである。
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2008年11月16日 (日)

江戸散策その4

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ビルに囲まれた一角、墨田区両国三丁目(旧本所松阪町)のなまこ塀は、「吉良上野介邸跡」である。史実では元禄14年(1701)江戸城「松の廊下」で刃傷沙汰が起こり、播州赤穂藩主・浅野内匠頭は切腹・お家(藩)取り潰しになるが、相手の吉良上野介には何もお咎めがなかった事になっている。ただこの事件の後、吉良上野介は江戸城に近かった屋敷を召し上げられ、川向うのここ本所松阪町に移されている事を考えると、幕府はお膝元の江戸城に近い場所で敵討ちの事件を起こされる事を恐れ、吉良をなかば「さらし者」にしても已む無し、と思っていたとも考えられる。

この吉良邸は京葉道路から少し入った町中のごく目立たない場所にあって、ここを目当てに来なければ通り過ぎてしまうほどの小さな屋敷跡である。当時の屋敷の86分の1だけが現在都指定旧跡として残されているにすぎない。私がここに来たのは2度目であるが、日本人の心情に訴えるあれほど有名な事件の現場としては、実にあっさりとしている事に驚く。300余年ほどの前の雪の夜、この場所で、討ち入り装束に身を固めた赤穂浪士47士が集まって主君の恨みを果たした様な熱狂的なエネルギーは、今や微塵も感じる事ができないごく普通の下町の一角である。

2008年11月15日 (土)

アイロンがけ

この処、少し忙しかったのだろうか。はたまた風邪なのかお腹の調子が悪く、身体の筋肉も疲労している気がする。頭もなにかぼーっとしていている感じがしてすっきりしない。

そういえば、掛け持ちで2つしている仕事の一つ、ヨーロッパ関連の仕事にちょっとした気懸りがあって、家でも毎夜、時差の関係でパソコンのメールモニターを余儀なくされている。初夏からの歯医者通いは毎週一回で、たっぷり治療に1時間かかって5ヶ月目、そろそろうんざりしてきたところだが、そこに父の入院で、夜間に家族の意見を聞きたいと医師に病院に呼び出されたり、見舞いに行ったりで、少し疲れていた事は間違いない。丁度妻もこの時期、勤めが大変遅いので、真夜中に帰ってきた彼女と会話を交わしながら、深夜おかずを再び何気なしにつまんだり、ついでにウイスキーを一杯飲んだりしていると、寝不足に加え朝の食欲も湧かなかった状態であった。妻に言わせると「ストレスに弱いんじゃない」と言う事になるが、そうだと自分でも自覚しているから仕方がない。精神的にタフではないのである。

こんな状態が続いたので、疲れから体調が冴えないのは納得できるのだが、こういう時の週末は、アイロンかけをするに限ると思っている。疲れていても家の中でごろごろばかりしていてもしょうがない。先週仕事に着て行った5本のズボンの折り目をプレスし、ついでに妻の通勤用のYシャツにもアイロンをかける。自分のワイシャツはすべてクリーニングに出しているので女性用だけならアイロンをかける面積も小さいし大して時間もかからない。なにより注意を払って、ズボンの筋を真っ直ぐにスチームをかけながらアイロンをかけたり、女性用Yシャツをビシットとアイロンかけすると、その間作業に集中しているのか、仕事の後すがすがしい気分になって、休日の生活に少しめりはり感が出てくる。ストレス性の疲れから回復するのに丁度良い程度の作業療法だ。ついでに、靴にクリームを塗ったり、トイレやお風呂の掃除などをすると、大分調子がでてくる。

そういえば、就職して間もない頃、まだ独身で自宅から通っていた時は、父が週末に相撲やゴルフ中継を見ながら、良く私のズボンのプレスをしてくれていた事を思い出す。入院中の父は、高齢で全快は難しいかもしれないが、事態の改善を祈っているところである。

と共に、来年は2つの仕事の掛け持ちはやめて、収入減は覚悟の上だが、楽な方一つだけにしようかなどとも検討している。あまり時間に追われたり、組織に振り回されたりせず、やりたい事だけを、気持ちよくできる人とだけとやっても良い年齢になっているのでは、と自分を甘やかしたい気分である。仕事に軸足を置いた生活(と言うと妻からは「それで?今でも充分楽しそうじゃない」と笑われそうだが)から50歳代後半は生活を楽しむ事に徐々に移行したいのである。

2008年11月11日 (火)

民都大阪 対 帝都東京

昨日のブログで、東京は明治・大正時代に中心地を囲む形で鉄道のターミナルが開業した、等と書いている中、サントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞した原武史著「『民都』大阪 対 『帝都』東京」・講談社刊を思い出した。東京では上野、東京、万世橋、両国など早くから開業したターミナル駅を、山の手線(1925年環状運転開始)が結んだと書いたが、総武・中央線(1932年開通)や旧国鉄線を中心に鉄道網が整備されたのに対し、大阪では1964年まで環状線がなく私鉄を中心に鉄道が発展していた。

この本で原は、阪急電鉄の(旧)梅田ターミナルが国鉄のガードをアンダー・パスして国鉄線に直角に大阪市内に乗り入れている事を象徴的に捉えて、「官なにするものぞ」で育った関西の私鉄と、山の手線に沿った形でターミナルを形成した関東私鉄の、官に寄り沿う考えを通して、行政に対する東西の対応の差異を考察した思想史を展開する。

原の論拠に沿って改めて考えてみると、東京の私鉄と大阪の私鉄では、同じ「大手私鉄」と人括りにできるのか、というくらいそのあり様の違いに驚く。大阪の私鉄のターミナルと言えば、阪急の梅田、南海のなんばなど、眼を見開かされる様な立派な駅が多い。これらターミナルはJRとは別個の場所に、あたかもその存在を主張するかの如く堂々と建設されており、JR線とは連絡していない。阪急の梅田駅を降りて、JR大阪駅中央口に歩いていく時、その不便さと屋根もない通路に「東京ではこの連絡はありえないな」としばし痛感するものだ。なにより私鉄線がJR線と駅を共有してホームを平行に建設したりしていないのが、原の指摘する様に関西の反骨心を表しているかの様に見える。大阪では阪急、阪神、京阪、近鉄、南海とどれ一つとしてそのターミナルや準ターミナルがJR線と平行に敷設されていない事に驚く。

対して東京では、明治・大正時代にターミナルが旧国鉄線の途中駅になったのを始め、京急、東急、小田急、京王、西武(池袋線)はすべてそのターミナルがJRの駅に乗り入れている。東武も東上線然り、伊勢崎線は準ターミナルの北千住で、西武新宿線は高田馬場で、京成は実質ターミナル日暮里でJRに平行に連絡しており、国鉄山の手線を起点としてすべての鉄道網が形勢された事が明白である。私鉄は山の手線から郊外に向かうもので、その内側は市電(都電)でカバーする、というルールが明確に存在していたであろうと思われるのが東京である。
また地方鉄道法によって1067ミリの軌間で建設された私鉄が主流の関東に対し、なかば「だまし」で軌道法(路面電車)による1435ミリ軌間で免許を得た関西の私鉄のえげつなさと官(国鉄)への対抗も感じるのである。

現在では東京でも大阪でも、地下鉄を介した私鉄同士の乗り入れが盛んになって、原則は随分くずれている様だが、原が指摘した私鉄建設を通して東西の官に対する姿勢が見て取れるという意見は、けだし卓見で頷く処が多い。

東京で運転しているドライバーが関西に行くと、そのエゲツナサに驚くと言うが、まだどこかにそんな交通ルールに対する東西の精神の違いが残っているのだろうか。

2008年11月10日 (月)

江戸散策その3万世橋

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神田川の川向こう(南側)に見えるレンガ造りの建物は、旧万世橋駅跡である。甲州と東京を結ぶ甲武鉄道のターミナル飯田町駅(飯田橋)から線路を都心方向に延長するため、1912年(明治45年)神田に万世橋駅が開業した。レンガ造りの豪壮なターミナルビルで、駅前には「杉野はいずこ?」の軍神・廣瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があったという。

現在では、東京の中心部は丸の内や銀座地区方面をさすが、江戸から明治にかけて、東京の中心部は今よりずっと東側であって、浅草・上野・両国・人形町あたりが繁華街として賑わっていた。その繁華街を囲む形で、東に両国駅(1904年開業)西は万世橋駅(1912年開業)、南は東京駅(1914年開業)北に上野駅(1883年開業)とターミナル駅が開業して行ったのであるが、その形態はパリやロンドンのターミナルがそれぞれ別の場所にあるのに似ていて面白い。( 現在の様に東京・上野を結ぶ線路が完成したのは1925年(大正14年)になる )

東京の道路地図を俯瞰すると気がつくのだが、神田付近は北から日光街道・中仙道、南から東海道、東から京葉道路が集まっていて、町の路地も、それぞれ旧街道に沿って作られた為、ワンブロックが三角形になっている場所が大変多い。そんな地域であるから万世橋駅前も三角形になっていて、駅前の須田町交差点付近は、丁度、市内各方面からの市電の路線が集まって来る要衝になっていた。万世橋で電車を降りて市電へ乗り換えるには大変便利であった様である。

壮大な万世橋駅も、甲武鉄道の後身、国鉄中央線が東京駅方向に1919年に伸び、関東大震災で駅舎が焼け落ちたりする中で、その役割を終え1943(昭和18年)に廃止された。戦後は旧駅跡を利用した交通博物館になって知られていたが、その交通博物館も大宮の鉄道博物館に移り、今では再開発(再利用)を待つのみとなって寂しい。

今は何の変哲もない須田町近辺であるが、オフィス街の中に「神田やぶそば」あんこう鍋の「いせ源」日本最古の鉄道模型の「カワイ模型」など知る人ぞ知る店が点在していて、一種不思議な雰囲気を醸し出す三角地帯になっている。そういえばかつて「いせ源」であんこう鍋を囲んでいると、有名な店の婆さんがすっとんで来て「そうやってやるんじゃないっ!」って怒られながら食べたもんだが、あの婆さんはまだ元気なのかな、と近所を通る度に思い出すのである。

2008年11月 9日 (日)

東京マラソン

昨日、メールの受信トレイを開くと、東京マラソン抽選結果のお知らせメールが2通。「おお、そう言えばそんな大会申し込んでいたな」と思い出したが、報道によると3万人の定員に22万人の応募との事。大体そのテのくじ運にはついていない方なので、半ばあきらめつつ最初のメールを開くと、妻の申し込みに対して「厳正なる抽選を行いましたところ、当選とさせていただきました。」そして2通目は私宛で「厳正なる抽選を行いましたところ、誠に残念ながら今回はご意向に沿えない結果となりました」と言う内容。もともと私の適正距離は20kmまでなので、それ以上走る気はあまりなく、そもそも今回の申し込みも妻が「ついでに」行ったものである。が、こうして妻だけ当選し自分が落ちてみるとやっぱり残念な気がしてくるから不思議なものだ。国立大学付属小学校にくじ入学で落ちて以来の運のなさ、しょうがないと思い直し今回は妻の後方支援に回ることにした。

で、早速今日からトレーニング開始ということで、皇居一周(5km)を約25分×2周の無理しないペースで走らせることにした。このペースで一緒に走ると妻は私に「おせーぞ」と言われているようでプレッシャーを感じると言うので、スタートで4分先行させ、1周目の終わりで丁度追い付いてそれから2周目を併走することにした。ところが今日は晩秋の冷え冷えとした日で走り始めるとやたら身体が軽く、足が勝手に前に行ってしまい、気が付くと3.5キロ地点で妻が目の前に。予定より早く追い付き過ぎてしまったが、ここから妻をコーチしながら併走しなければと一瞬思ったものの、このまま行けば20分を切るかもしれないと思い「先に行って待ってる」と声をかけ、そのまま勢い良く抜き差ってしまった。

「えぇぇ~~」と妻の声が遠のいていくのを尻目に1周目を終わって待っていると妻がムっとした顔をして凄い勢いで戻って来た。「25分と思うから3キロから4キロの所でちょっと力を抜いたのにそこで抜かすんだもん。」妻も身体が軽かったらしいが健気にも夫のいいつけ通りのペースを守ったのに話が違う、ということらしい。「ムカついたから最後の1キロは最高速で走って来た」とムクれている。私は「でもその結果24分そこそこで走ったのだから良かったじゃない」といなしながら冷や汗。

今年1月の新宿シティハーフマラソンも、直前まで初ハーフの妻に併走してやろうと思っていたのだが、競技場まで行くと気分が高揚し、タイム別に分かれているスタート地点で妻より遥か前の方に行って並んで勝負に徹してしまった。レース前はいつもコーチ役をと思っているが、どこまで自分を制することが出来るのか、甚だ自信がない。「レース場に入ると気合が入り過ぎてパドックで落ち着かず、騎手の言うことを聞かずに向こう正面で突っ走ってしまうウマ(掛かったウマ)みたい」とは競馬好きの妻の批評(批判?)。

2008年11月 8日 (土)

江戸散策その2水道橋

これは、水道橋駅東方付近の神田川を下流から上流に向かって見たもの。井の頭公園を水源として、飯田橋付近から日本橋方面に流れていた本流 (江戸時代以前は平川と呼ばれていた)の分水路として、江戸時代初期に神田駿河台を掘削して開いた人工の放水路が神田川である。かつて神田上水がこの付近で神田川をオーバークロスしていて、その木橋があったため水道橋と言われる様になった。

その神田上水は、ここより3キロ程上流の関口(今の椿山荘脇)で平川から分流し、小石川の水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)に流れ込んだ後、この付近で神田川を超え (写真向かって右から左へ流れていた) 神田駿河台から地下に設けられた石桶や木桶を通り、江戸の主に東半分に給水されていた。

一方、江戸西半分は多摩川から引いた、玉川上水により給水されており、両上水道に関わる歴史や遺構などが、水道橋近くの東京都水道歴史館に詳しく展示されている。こうして見るとすでに17世紀には、上水道が江戸市中に張り巡らせていたのだが、これは水道としてはロンドンなどと共に、当時世界で最も先進的なシステムであったと言う。

近代日本文明の礎になる社会体制が江戸時代には構築され、徳川300年の鎖国中に成熟、明治維新以降に一気に近代化に結びついたわけだが、これらの歴史の遺物を見ると、我らの先祖もなかなか大したものをこしらえていたものだ、としばし思う。

最近は水辺めぐりの写真の様なボート遊びもあるので、そのうちこんなボートに乗って、川から江戸の歴史や東京の地誌を眺めてみたいものだ。
B

2008年11月 7日 (金)

江戸散策その1

4年ほど前、神奈川県民から25年ぶりで東京都民に戻り、山の手線の内側に住む様になった。今では都心の道に不案内という事もなくなり、大分土地勘もついてきた。東京でタクシーの運転手をやっていくには、得意な地域をもった上、全体がわかればなお良いと運転手に聞いた事があったので、そういう意味では運転手の嫌いな狭い元農道などが多い世田谷・目黒など東京西郊を中心として、都心でも良し、今やっている職にあぶれたらタクシーの運転手をやってみるか、などと言う甘い考えが”ちら”と頭をかすめる。

そんな気持ちで都心をジョギングしているうち、あちこちの名所や旧跡、案内板に目が向く様になる。注意してみると東京の中心部には、江戸時代の史跡などを解説した案内や表示がとても多い事に気が付くが、それら解説を立ち止まって見ていると、いつの間にやら江戸市中の事に興味が湧く様になってきた。そんなわけで時間があると江戸東京博物館や、下町風俗資料館・深川江戸資料館にぶらり寄ってみたり、江戸の古地図や地形図を買ってあれこれ「いにしえ」を想像してみるのも、また「いと楽し」という心持ちになってきた。

先週の週末は、我が家からコンパクトデジカメを持って、妻とジョギングかたがた本所松阪町の吉良上野介亭に行く事にした。往復で10キロ超、気候も良く丁度良い散策ジョギングだ。道中、江戸の名所をデジカメに収めつつチンタラ走りながら写した写真の一枚がこれである。この掘割は神田川で上流から下流に向けて撮ったもの。この川は井の頭公園に源を発し、途中で善福寺川などの支流を集め、水流の一部を神田上水に供給して江戸市民の水源となっていた。

当初この川は飯田橋と水道橋の中間、丁度、現在後楽園の場外馬券売り場からやや飯田橋寄りの場所 (写真の地点) で南(右方)に向かい、かつては江戸城の東、現在の大手町や日比谷近辺まで来ていた東京湾に流れ込む川であったそうだ。しかし江戸時代初期に江戸城の守りや水害対策で、この飯田橋/水道橋間で新たに真東方向(写真では間真っ直ぐ方向)に水路を造り、神田駿河台を掘割で越えて隅田川に注ぐ運河を幕府が造ったのだが、これが現在神田川と呼ばれている。 この結果、もともとあった川筋はその後、日本橋川となり、日本橋近辺から隅田川の下流に注いでいる訳である。

この写真は神田川と日本橋川の分流点を写したもので、向かって右側が旧来の川筋で今は日本橋川と呼ばれる川、左側が江戸初期に東に向かって掘削された現在の神田川である。それにつけても江戸開城を機に、荒川や隅田川の治水、神田川の付け替えなどの大工事を行い、上水道を整備した江戸幕府。水を制するものは天下や民を制する、という気持ちが現われていたのであろうと想像するのである。
A_10

2008年11月 5日 (水)

神宮経由甲子園

秋の早慶戦が終わると、来春まで母校の選手のユニフォーム姿は見られないので毎年この時期は、少し寂しい思いがしている。唯一の例外は、東京六大学リーグ戦で優勝したシーズンで、この時はリーグ戦優勝校が明治神宮大会に出場する事が出来るので、秋深くなるまで全国の各リーグ戦優勝校との試合を神宮球場で楽しめる。今年は慶應大学は早稲田大学の前に破れリーグ戦2位に甘んじたため、これで来春まで神宮球場へは行けないと思っていた。

ところが弟分の慶應高校が夏の甲子園ベスト8に続き快進撃、この秋期地区大会を勝ち抜き関東大会の決勝まで進んでいる。すでに来春のセンバツの切符を確実にしているのだが、今日の関東大会の決勝で千葉代表・習志野高校に勝てば、晴れて明治神宮大会・高校の部に出場できる。これは応援に行かねばと、仕事は午後からとして、今日は朝から保土ヶ谷球場に駆けつけたのだった。

試合は、さすが谷沢や掛布の母校・習志野、初回の猛攻撃で5点を先取されるが、このビハインドを慶應は粘り強く反撃して遂に9対6で勝ち、秋期関東大会を制する事ができた。スタンドでは「センバツ、夏の選手権、来春のセンバツと3回連続甲子園出場、慶應は本当に強くなったな」とあちこちから声が挙がっていた。これで寒空に仕事をさぼって、わざわざ保土ヶ谷まで応援に行った甲斐があったと言うものだ。

で、慶應高校は次次週日曜日、神宮球場で東北地区代表の青森・光星学院と対戦する事になるのだが、又観戦に行けるとは、これは秋の思わぬ「もうけもの」。神宮球場経由来春の甲子園切符を貰った様なものだ。これは丁度、貰えないと思っていた秋のボーナスが、急遽支給された様な感じでもある。
A_11

2008年11月 4日 (火)

通勤は馬で

高齢の父が入院していて、時々意識が混濁する。思い出すのは子供の頃の事らしく、眠りから覚めると昔の事を断片的に話してくれる。そんな話を聞いて、たまたま四年前に越してきた現在の住まいのすぐ近くにかつて祖父や父が長く暮らしていた事を知った。

祖父は医者で、大正時代のなかばに官費でスイスに留学し、陸軍軍医学校の教官を勤めていたと言う。陸軍軍医学校は新宿区戸山にある現在の国際医療センター(旧国立第一病院)の一隅にあって、祖父母一家は当時、大久保駅近くに住んでいたらしい。今の大久保通りを、馬に乗って大久保二丁目から戸山が原を通り、軍医学校に通勤していたとの事。東京が空襲されていた際には、庭に箪笥や家財道具を埋めて西荻の方へ逃げていたのだが、焼け野原になった元の場所に戻ってくると、既に他人が焼け跡にバラックを建てて占拠していたと話してくれる。そう言えば今の大久保や新大久保の辺りは、韓国人街の様になっているが、戦中・戦後にはそういう歴史もあって今の街並みがあるのだと認識を新たにする。

祖父は軍医学校の教官を勤めるとともに、東京帝国大学の医学部の教授でもあったのだが、祖父の軍位であった軍医少将の方が東大教授より格上で、公式の行事はすべて軍人として招待されたと言う事も父がぽつりぽつり話してくれる。そんな関係で戦後は公職追放に遭って東大を去り、武蔵野赤十字病院などの発展に尽力した。私が小さい時分、何かの病気になった時は、当時、武蔵野赤十字病院でまだ勤務をしていた耳鼻咽喉科医の祖父に診察をしてもらった事もあった。孫には優しいおじいちゃんだったが、軍人気質なのだろう、追悼文集に東大の教え子たちは「とにかく厳しい先生だった」との原稿を多数寄せていた。

それにしても、世田谷方面からの帰り道にクルマで良く通る大久保通りの明治通りから戸山公園のあたりを、その昔祖父が軍馬に跨って毎朝毎夕闊歩していたかと思うと感慨深い。何か不思議な地縁があるような気もしてくる。

2008年11月 3日 (月)

紺色スーツ軍団

異様な一群が町を歩いていた。全員小さな子供を連れた3人組で、父親がダーク・スーツ(ほとんどが濃紺)で母親が紺のスーツである。最初は7・5・3の参拝かと思ったが、華やかに着飾った和服姿もない。父親は全員白のYシャツ、母親ときたら色見本の基準でもある様な同じ濃さの紺色で、違いは胸のボタンがフック留めか丸ボタンか、あるいは珠に紺のベルトを付けている人を見かけるぐらいしかない。子供の制服集団ならまだ良く見かけるが、保護者も制服を着せられるとなると、これは子供を「だし」にした新興宗教かと思うばかりで、それぞれが足早に地下鉄やJRの駅に急ぐ姿は、この自由な社会で何がおこったのか?と訝ってしまった。

で、今日はそんな年頃の子供を持つ義妹に「あれは一体何?」と聞くと、案の定「お受験よ!」との答え。「親の服装が他と少しでも違って目立ってしまう事で、入試に不利になったら困ると思っているのよ」との事。なにやら全体主義のどこかの国で、人と少しでも違っていたら差別や密告される社会の様じゃないか。いつから受験がそんな恐怖政治みたいになってしまったのだろう。

今度某私立学校で永年教師をしている昔の同級生にあったら聞いてみたいのだが、常識的に考えれば、別にブレザーや他人と色が違うスーツで保護者が行っても差別される訳がないし、それで入試の成績に響く事もないだろう。仮にそんな事が評価の対象になる様な学校だったら、親の方から願い下げた方が良い。そんな事で子供が人生の入り口で峻別される社会であるとすると、わずかな差異を見つけて子供同士がいじめや差別をするのを、親の側が助長している風潮を作っているのではないだろうか? 

かつて出向先で営業担当の役員として、大卒新入社員の面接をした事があったが、皆どこかの教則に書いてあった様な模範的な答えをするのに辟易としていた。そんな折、私はよく「大学の校歌を最初から最後まで歌ってくれ」と質問したものである。多分そんな質問は想定問答集にはないのだろう、志願者は皆、随分面食らっていた様である。そんな時に気のきいた答えをする学生は評価できるし、自分の属する集団にどの位主体的に関わったかのテストに丁度良いと思ったのだが、ある時「あまり変な質問をすると、リクルートナビなどであの会社はおかしい、と投稿されるので辞めてほしい」と総務担当の役員に言われてしまった。ああ、嫌な風潮だなと思ったが、今日は紺色スーツ軍団を見て絶句、そんな世の中なのだなと感じたのであった。

面接の時 「この会社は上場しているのですか?自分は学生なので何もわからなくて」とあっけらかんと答えた学生を採用者に加えた事を思い出すが、その会社を去った今でも、彼が順調に伸びているのを見て、良かったなと思うのである。

2008年11月 2日 (日)

時宜

ここ数年、海運会社の好業績の源になっていた、ばら積み貨物船の市況が急落して、関係者は混乱に陥っている。中国が過剰な在庫調整の為に素材輸入を控えている処に、世界的な金融危機が追い討ちをかけているらしい。1ヶ月前まで我が世の春、怖いものなしだった海運企業の役員さん達は、今や顔も真っ青、新造船の発注残も多く市況の回復を心待ちしている状態である。海外ではすでに立ち行かなくなる海運会社の噂や、新造船のキャンセルの話もあちこちで出ている。

ここ数年ブームにのって業容を拡大し、設備投資を行ってきた大手海運会社は「従来は8億の民だけが世界経済を支えていたが、いまやBRICSの30億人が市場に入ってきた」「中国やインドは内需主導で欧米が景気後退しても影響は少ない」などなどの理由で大きな海運市況の後退はない、と断言していたのだがその予想は「おおはずれ」。

さてこの間、業界誌(紙)などもちょうちん記事で「行け行けどんどん」を扇っていたのだが、そんな中ある海運専門誌にこの夏勇気あるコラムがあった。このコラムは初夏の頃に原稿が書かれていたものだろうが、その時点で市況の悪化を唱える人はほとんどいなかった時に、注目すべき意見だった。

いわく


  1. 世界経済は(今年初夏の段階で)サブプライム問題で後退局面に入っていたが、経済の後退は後追いで海運など物流に影響する。

  2. 90年代IT革命が景気循環を穏やかなものにする、と言う論者が多くいたがそんな事はなかった。中国等の内需拡大が先進国の景気後退のバッファーになって海運市況が  落ちないという事も同様に期待できない。

  3. 海運企業は、都合の良いデータを見つけて、それがいつまでも続くのだという事を誰かが言い出し、仲間間で共有・共鳴する事で安心している。

  4. 数ヶ月の内に大きな、海運市況反落が来るだろう。

と言うものであった。かなり影響力のある業界誌で多くの関係者が目を通しているであろう処に、時流と反対の大胆な意見を述べる物だと感心したが、今から見るとけだし、時宜を得た警告だった。市況を解説する者(意見・記事)はその発表タイミングが大変重要で、「大筋当たっているが数ヶ月ずれていた」類の論評や、後追い説明は、まったく役に立たないが、このコラムの警告についてはその先見、慧眼に脱帽する。

まあいずれ市況は回復するだろうし、私はかなり早期にある程度まで反発して上がると見ているが、ここ5年ほど続いた史上最高の海運景気に冷や水を浴びせ、関係者にもう一度原点を振り向かせるには、今回の急落は絶好の機会であったと考えたい。

市況に大きく左右される産業で食べている者として「どんな市況も上がったら下がる、理論では説明つかない上げ下げが起こる、大勢が一方に行く時には慎重に行動すべし、リスクの取れる範囲でしか業容を拡大しては行けない、それで一時他社から遅れをとっても良い」と言う当たり前の教訓を噛みしめている。

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