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2008年9月29日 (月)

電車唱歌のなぞ

下は、作詞 石原和三郎・作曲 田村虎蔵になる電車唱歌。明治38年(1906年)に作られたもので都電(東京市電)の名所旧跡を歌ったものだ。

一番 玉の宮居は丸の内 近き日比谷に集まれる 電車の道は十文字 まずは上野へと遊ばんか
二番 左に宮城おがみつつ 東京府庁を右に見て 馬場先門や和田倉門 大手町には内務省
三番 渡るも早し神田橋 錦町より小川町 乗りかえしげき須田町や 昌平橋をわたりゆく
四番 神田神社の広前を すぎて本郷大通り 右にまがりて切通し 仰ぐ湯島の天満宮
五番 いつしか上野広小路 さて公園に見るものは 西郷翁の銅像よ 東照宮のみたまやよ

この歌については、永年疑問に思っていた事がある。歌の上とは言え、須田町から昌平橋を渡る路線などがあったのだろうかと言う事を含めて、なぜ日比谷から上野に行くのにわざわざ本郷を経由していくのかが不思議だった。

一番から歌詞に合わせて現在の道路を辿ってみると、日比谷交差点を起点に日比谷通りを北上する事になるが、この線を神田橋線と言ったと言う。一番から三番の途中までの部分は大手町から小川町まで現在の日比谷通り上をまっすぐ進めば良い。さて神田小川町で神田橋線の電車は現在の靖国通りと交差して右折、終点の須田町まで直行していたのであろう。神田須田町は南の東海道へ伸びる町並みと、北の日光街道や中仙道に沿ってできた町並みが江戸市中で交わる辺りで、明治時代は東京の交通の要衝、市電の一大ジャンクションでもあった。

さて難関はここからだ。普通に考えると、神田須田町から上野広小路は目と鼻の先、現在の中央通り、秋葉原の電気街を抜けて地下鉄銀座線が走っている様に北に向かって直行すれば良いはずで、須田町-上野間は上野線も開通していたはずだ。なぜ須田町からわざわざ少し戻って昌平橋を渡り、本郷を通り抜け、切り通しを下りて上野広小路に出たのかが永年疑問だった。

でここ数日地図を買ってきたり、ネットであちこち検索していたのだが、やっとこういう事だろうという事になった。

①歌の出来た明治38年は、東京の路面電車は3社が運行しており、神田橋線と本郷方面に向かう本郷線は東京市街鉄道(街鉄)という会社が経営していた。銀座方面から来て須田町を通って上野に至る上野線は東京電車鉄道(東電)の経営だったので、須田町で同じ街鉄に乗り換えることはごく普通の感覚で、運賃もその方が安かったのかもしれない。

②当時の東電・上野線の走る秋葉原は文字通りの寂しい原っぱで見るべきものもなく、歌にならなっかたのかもしれない。それに比べると神田明神、湯島天神を廻り「本郷もかねやすまでが江戸の内」と江戸時代から川柳で読まれた「かねやす」前(本郷三丁目)を通る本郷線の方が親しみがあったのではないか。

③現在の万世橋は明治36年、この歌の出来る少し前に完成したばかりで、明治29年に完成した昌平橋の方がこの地域の交通のメインだったのではないだろうか。歌の三番では須田町で本郷線に乗り換えてわざわざ少し戻って昌平橋に向かう事になるが、こちらの方が須田町乗り換え万世橋経由の東電・上野線より当時はトランク・ラインであったのではないか。

という風に考えると所詮は歌であっても辻褄があってくる。

神田須田町あたりは明治41年には甲武鉄道(現在の中央線)のターミナル万世橋駅が造られ、駅前には市電網が終結して大変な賑わいだったそうである。今でも神田の「やぶそば」やあんこうなべの「伊勢源」などの老舗がならぶのは往時の名残りによる

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