« 一陽来復 | トップページ | 皇居ランニング »

2008年2月22日 (金)

他力本願

他力本願」という言葉は、もっぱら他人の力をあてにするという意味で使われている。
しかしこの言葉の本来の意味は、仏様(阿弥陀仏)が立てた願いの力によってのみ、凡夫は仏の世界に往生できる、と云う事らしい。

これをもっと平易に考えてみると、こういう事なのだろうと思っている。
人はだいたい自分自身の力や努力によって生きていると考えている。しかしちょっと考えれば、人は周囲や社会に依存して生きており、自分一人の力では何もできない事に気づく。両親がいなければ生まれて来ず、愛がなければ健康に育たなかったかもしれない。大人になれば家族や友人に助けられて毎日の生活を営み、職場の人が居なければ経済活動もできない。近所の人々がいて自分が安心して住める家がある。もっと広く言えば社会の仕組みや枠組がなければ、どの人も一日たりとも生活ができないのだ。人は人に活かされて生きているのだし、自分もその中の一員だという事をすべからく自覚せざるを得ない。
その事に本当に気づけば、毎日毎日を大事にして周囲に感謝し、まわりの人をおもいばかって生きる事が大切だと分かる。これを仏教では利他というらしいが、利他の行動がすなはち自分の幸せになると云うのが「他力本願」の本来の意味であろう。

私は、40歳台後半から50歳代になる頃、何度か大きな転機・危機を経験した。それまでは自分の人生は「まあこんなものかな」と思って、物事を深く考えずに来たわけだが、そういった安易さのつけが一挙に巡って来て危機に直面したのでないかと云う思いだった。
危機の原因は本来もってうまれた「業」の強さというか、心の弱さにもあると痛切に感じ、少し生きる方向、考え方を変えたいと悩んだものである。この悩みの中で出合った言葉の一つが「他力本願」だった。

自分自身に「他力本願」の本意をあてはめてみると、「周りの人をもっと信頼し大きな目で見てあげなさい。自分一人で生きているのではないのだから、周囲に感謝し穏やかに生きなさい。」という事ではないかなと考えている。

そうは言うものの、みずから修養を積んでいるわけでなく、むしろその反対の幼弱性に翻弄される毎日であって、自分の「業」の深さには時々嫌気がさしてくるのだが、先般作家の宮本輝が「人間にはそれぞれ業がある。長い葛藤を経てそれがふっと消える時がある。人生何一つ無駄なものはない」と言う趣旨の発言をされていた。それを聞いて少し救われた気持ちになったのが事実である。

« 一陽来復 | トップページ | 皇居ランニング »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 一陽来復 | トップページ | 皇居ランニング »

2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
無料ブログはココログ