2018年6月23日 (土)

飛鳥II代替船

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サンディエゴの飛鳥Ⅱ

1990年にクリスタル・ハーモニーとして完成した飛鳥Ⅱも船齢28歳と相当なお婆さんになった。リプレースについて様々な検討がなされているが、プランが具体化して発表できるような段階ではまだないとされる。関係者の話では次のワールドクルーズは2020年を予定しているそうで、それまではこのまま本船を使う事は間違いないだろう。それどころか大型クルーズ船を建造できるドックは世界でも限られており、数年先の受注まで発表されている中に飛鳥Ⅱの代替船が見当たらないないから、中古船でも買ってこない限り当分の間この飛鳥Ⅱが使われるはずだ。


中古船の購入も考えられるものの、メンテナンスの面からみて日本で汎用される諸機器を装備した船が候補として望ましいが、欧州の造船所で完成した船はヨーロッパ仕様とあって部品の交換も容易ではない。水まわり一つとっても浴槽につかる習慣をもつ日本人向けの船と、シャワーで充分の西欧向けの船では、タンクや増水設備の基準が大きく異なるであろう。その他ランドリーの設備やら厨房・食料貯蔵設備などを考えると、中古船を購入してすぐさま飛鳥クルーズに転用するのは容易ではないはずだ。


ひょとすると数年後には”にっぽん丸”や”パシビ”と業務提携したり、外資と組んでまったく新しいコンセプトの日本船(日本籍に必ずしもあらず)が誕生したりする可能性もある。すでにコンテナ船の分野では郵船・商船三井・川崎汽船の大手三社が新しい会社を作って共同事業を進め始めた通りである。造船所もクルーズの建造については我こそはと思う日本の造船所が現れることを望みたいところだ。飛鳥Ⅱのデッキに張り巡らされた素晴らしいチーク材は資源的にもう大量に入手するのが困難らしいが、様々な隘路を克服し次世代の日本船が早く発表されないものか。諸外国の港でモダンなデザインの大型船と並ぶと、本当は贅沢な造りながら見た目は一世代前の船である飛鳥Ⅱにちょっと肩身が狭い感がするのである。

2018年6月20日 (水)

カルタヘナの要塞で考える

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カルタヘナのサン・フェリペ要塞 中南米で奪った富を守るために16世紀から造られた

コロンビアのカルタヘナはかつてスペインの大西洋における奴隷貿易の中心地であった。カルタヘナの町はスペインが中南米の植民地で奪った金銀やエメラルドの集積地であり、ここに集まった財宝がスペイン本土へ積み出されたのだという。これら集まった膨大な富を狙う海賊には、英国などの列強が裏で操つる傭兵が多数いたとの事である。まさに盗人が泥棒を襲うかのような国家ぐるみの血なまぐさい略奪行為がこの辺りで繰り広げられていたわけである。


ここまで飛鳥Ⅱで欧州や新大陸の各地をざっとながら巡ってくると、彼ら西欧人の歴史は対立と戦争の連続であったという思いに至る。あちこちで常に血で血を争ういくさが繰り広げられてきたのだ。その要因は地続きの地勢をベースにした民族の移動、モスリム対キリストの宗教戦争、さらに英国対スペインなど列強の覇権争いと様々なものがあったろう。いたる所にある要塞や戦いの跡を訪れると、異なる存在が平和裡に共存することより、征服や支配をすると云う遺伝子が彼らの根底にあると思える。


翻ってわが国は明治時代まで豊臣秀吉の朝鮮出兵など極く一部の例外を除いて他国へ兵を出したことはない。列強が血で血を争った近世には徳川幕府の天下統一がなり、統一国家のもとに文化の発展や資本の蓄積が行われたのである。ケント・ギルバート氏などが述べているように、マッカーサーの進駐軍は戦争中に体験した日本軍の強さを恐れ、日本人は野蛮で伝統的に好戦的な民族だと決めつけて徹底的な愚民政策を施した。その影響はいまだ根強く残ったままだが、日本人が他国を侵略したり他の民族を支配するDNAは持っていない事を海外に出る度に強く感じる。安全保障上の法案が審議されるたびに「軍靴の音が聞こえる」「息子が戦場に行かされる」「徴兵制になる」等のキャンペーンはいい加減に止めて欲しいものだ。

2018年6月16日 (土)

ナッソーの客船天国

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バハマは米国フロリダ半島にほど近く、首都ナッソーは毎日のようにカリブ海クルーズの客船が寄港して賑ぎわっている。2011年に飛鳥Ⅱで来た時も当時新造船だった”ディズニードリーム”をはじめ、カーニバルクルーズ社など多くの船が入港しており、これらの美しい客船を見ているだけで、カリブに来たなあ、と飽きなかったものだ。今回も我々が入港した日には13万トンの”ディズニー・ドリーム”(ディズニークルーズ社)、8万トン級のエンチャントメント・オブ・ザ・シーズ(ロイヤルカリビアン社)、同じく8万トンのノルウエイジャン・スター(ノルウエイジャン・クルーズライン社)の3隻が同時に港に着いていた。


ナッソーの町自体は小さく散策するのにさして時間はかからないから、今年も間近に入港している各社のクルーズ船をゆっくり観察することにした。各船の舷門まで歩いて行き、どんな人達が乗っているのかゆっくりと見て廻るのも面白いものだ。まず飛鳥Ⅱのすぐ近くに着岸した”ディズニー・ドリーム”に行くと、ガヤガヤと下船してきた乗客たちからは、いかにも楽しそうな雰囲気が漂ってくる。ほとんどが子供連れの家族で、なかには祖父母に孫もいる3世代乗客も見られる。大半が米語を話す白人ばかりのようで、ここにいると何やら1960年代に放送されたアメリカのフアミリードラマの中にいるような気分になる。


その手前の桟橋にはエンチャントメント・オブ・シーズが停泊している。みると船から下りて連絡バスに並ぶ列は、外人特有の脂肪の塊のような太った人やタトゥーをしている乗客がディズニーより多いのが一目でわかる。黒人も多数見られるが、白人と見える人達でもスペイン語で会話してしているものもかなりいて、ディズニーとは雰囲気がかなり異なっている。最後に一番遠い桟橋についた”ノルウエージャン・スター”はかつて”プライド・オブ・アロハ”としてハワイ周遊航路に就航していた憧れの船である。同船の舷門で見ていると、ディズニー船とロイヤルカリビアン船の中間の様な印象であった。


こうして同じ”スタンダード・クラス”に分類される大型のカリブ海クルーズ船なのに、対象とする客層や旅程、その他料金の多少の違いで各船の雰囲気がかなり違う事に改めて興味を覚える。それにしてもこうして異なる様々な船が、それぞれのサービスを展開している欧米市場に比べて、日本船のクルーズ事業は同じようなカテゴリーの船ばかりで寂しいものだ。外国のクルーズ船会社が日本を含めたアジア市場に大型船を配船するようになっても邦船三社は新造船の計画も発表せず、この先どう事業を展開して行くのだろうか。カリブに来るたびにいつも日本船のクルーズの将来が心配になってくる。

2018年6月11日 (月)

ボルチモア鉄道博物館とマクヘンリー砦

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飛鳥Ⅱは米国東部メリーランド州ボルチモアに初寄港した。私も初めてのボルチモアだ。寄港日はメジャーリーグ・オリオールズの本拠地カムデンパークやベーブ・ルースの生家に立ち寄った後、市内にある鉄道博物館に行ってみた。ボルチモアは1828年米国で初めての鉄道ボルチモア・オハイオ鉄道(B & O Rail)が開通した場所である。そのB & O Railは他の鉄道会社と一緒になり今やその名はないが、受け皿となった財団が運営する鉄道博物館は、もと機関庫だった大ドームを中心とする立派なものであった。


博物館には多くの機関車や客車の展示のほか、テレビの西部劇でおなじみの駅馬車や荷馬車など、鉄道前史時代の内陸移動に関する展示物も置かれている。また鉄道の優位性を訴え資金を集めるために馬車と公開競走した蒸気機関車なども展示され、アメリカの歴史に鉄道が携わるようになった誇りが館内に満ちているような気がした。この鉄道が計画された19世紀初頭は五大湖や中西部で工業化が進んだ時期である。大西洋に面した東部と中西部の物資の輸送に運河の掘削や河川の整備が進む一方で、鉄道の開設が急がれていた時代である。


ボルチモアはチェサピーク湾の最深部で、海が内陸に深く切れ込んだ場所にある。地図を見るとここから真っ直ぐに北ないし北西に進めば、オハイオなど五大湖の産業地帯に近く、この地で米国初の鉄道が敷設された理由がよくわかった。博物館の後に行ったマックヘンリー要塞は、1814年米英戦争でボルチモア攻略の戦いが繰り広げられた激戦地で、アメリカの国歌(National Antham)は、英軍の砲撃に耐え翌朝も星条旗がマクヘンリー砦の上にははためいていた事を謳ったものである。鉄道博物館や砦を見学し、ボルチモアはこの国の独立・発展に欠くことができない土地だった事を知る事ができた。いやー、クルーズってためになるものだ。

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Whose broad stripes and bright stars through the perilous fight,
O’er the ramparts we watched, were so gallantly streaming?
星条旗はramparts(要塞の壁)にまだ翻っていたと歌われたマクヘンリー砦

2018年6月 7日 (木)

フェンウェイパークにて

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マサチューセッツ州ボストンでは、フェンウェイパークの大リーグ、地元レッドソックス対アトランタ・ブレーブス戦(インター・リーグ)に船から出るツアーで行った。以前飛鳥Ⅱの2011年ワールドクルーズの際はニューヨークで一泊停泊したので、地下鉄に乗ってヤンキースタジアムのナイトゲームを見に行った。当時、外野(ブリーチャー)の席でも100ドル以上と高額なのにびっくりし、またビールを買おうとしたら写真つきのIDが必要だというのにパスポートは船にあり困った経験をした。とくに夜おそくなって地下鉄の最寄りの駅からクルーズターミナルまでは、暗くて人通りも少なくやや怖い気持ちもしたものだった。


という事で今回は料金がとても高いのには目をつむり、送り迎えにガイドもついた船から出る安心の「大リーグ観戦ツアー」に参加した。ボストン市内中心部にあるフェンウェイパークは、メモリアルデーの3連休、かつレッドソックスが現在ア・リーグ東地区で首位とあって満員盛況である。テレビのMLB中継や映画などで何度も見たおなじみレフト外野フィールドの壁グリーンモンスターはいかしく聳えたち、まさに伝統を感じさせるが観客席や通路は適度に近代化されていて快適な球場であった。


グリーンモンスターは球場を作る際に市街地の中で十分なスペースがないので、レフト側観客席の前を高い壁で覆ったとされている。しかしメジャーリーグの球場に来てみると、新しいスタジアムや周囲が十分広い場所でも左右が対象でない外野グランドが多い。ベースボールは町の広っぱや空き地で発達したもので、必ずしも両翼をシンメトリーに作る必要がないというという考えが根底にあるのだろう。対して六大学野球や中等学校野球大会から広まった我が国の「野球」は、教育・体育の一環として発達した。太鼓やラッパの応援が禁止されても場内に横溢する賑やかなアメリカのボールパークの雰囲気に接するにつけ、「ベースボール」と「野球」はルールは同じでも、似て非なる文化背景があるのだろうといつも感じるのである。

球場名物、リーガル・シーフードのクラムチャウダー

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2018年6月 1日 (金)

ハリファックスの大爆発

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ハリファックスに入港したコンテナ船は航路の左を岸壁に向かう

飛鳥Ⅱは5月22日、カナダ東岸ノバ・スコシア州ハリファックスに入港した。ハリファックスはヨーロッパから大西洋を横断する航路では、北米東岸における最短の地で、タイタニック号遭難の際にも多くの生存者や犠牲者が運ばれたところだ。ここはまた第一次大戦中の1917年に、船舶同士の事故から引き起こされた「ハリファクスの大爆発」事件でも有名な場所である。飛鳥Ⅱが停泊したクルーズ船ターミナルからほど近い場所にある大西洋海洋博物館に行くと、「ハリファクスの大爆発」特別展示コーナーが開設されていたので、今回ゆっくりとこの事件の経緯を知る事ができた。


時は第一次大戦のさなか、当時、北米から戦場のヨーロッパに向かう物資の集積地として、あるいはドイツのUボートに対する連合軍船団の集合場所としてハリファックス港は大いににぎわっていた。港の入り口には夜間Uボートの進入を防ぐ対潜ネットが敷設され、これが開く朝の時間帯は港内は入港船と出港船がラッシュする上、多くの漁船やフェリーが行き交っていたと云う。事件のおきた12月6日の朝、ノルウエー籍イモ号はパイロットに蕎導され、次港のニューヨークでベルギー向けの援助物資を積むべく、空船で港の出口に向かっていた。一方フランス船モンブラン号は、ヨーロッパに向かう軍需物資や火薬、甲板上にはベンゼンのドラム缶を積み、ハリファックスで船団を組むためにパイロットが乗船して入港しようとしていた。


さて飛鳥Ⅱが停泊した客船ターミナルやコンテナターミナルがそうであるように、当時もハリファックス港は主な荷役の設備が港の西側(入り口から見て左側)に位置していた。その上この港は地理的にも奥に向かって西に屈曲しているため、混雑している港に入ってくる船舶はしばしば本来の海上交通ルールとは逆の左側通行(右舷同士でのすれ違い)で航行していたそうだ。今でも飛鳥Ⅱから見ているとコンテナターミナルに向かう船が、港内に入ると早くから針路を左にとって岸壁に向かっていたが、入港船が早めに左に進路をとるのが同港の伝統的な慣習なのであろう。


12月6日の朝、出港するイモ号は、入港船舶が本来の海上規則とは違って左側を航行するのを見越して、港内の左側を通って港の出口に向かって進んでいた。これに対して入港するモンブラン号は、本来の規則通り航路の右側を通って港に入ってきたため、両船は船首同士が向き合うことになる。モンブラン号が汽笛一発を発してイモ号に注意を促すが、イモ号は汽笛2発(左に回頭する)むね応え、この応酬を幾度かしつつお互いが進路を譲らないうちに両船は急速に接近してしまったとされる。もはや衝突が不可避となった時点でモンブラン号がハードポート(左に大回頭)、イモ号がフルアスターン(全速後進)をかけるも、モンブラン号の右舷にイモ号の舳先が深く食い込んでしまった。


この時、モンブラン号のデッキ上に積まれたベンゼンが衝突の火花で着火したため、同号は直ちに大火災を起こしてしまう。炎に包まれたモンブラン号の乗組員が退船したため、同船は無人のまま漂流、そのまま陸地に接近するうち、消火のために集まった消防や見物客の前で、積荷の火薬類に火がうつって船は一瞬にして大爆発をおこした。この大爆発で水辺にあつまった人達を含め2000人が死亡し9000人が負傷、町のほとんどが一瞬にして瓦礫と化したと云う。海洋博物館には灰燼となった町の多くの写真や「一回の爆発で犠牲になった人々の数は広島以前では最大」との説明が展示され、爆発事故の凄まじさを伝えてくれる。


飛鳥Ⅱに帰って、もと外航船の船長をしていた乗客にこの話をすると「パイロットの間では先輩・後輩とかキャリアの違いで微妙な駆け引きがあるんですね。狭い航路ですれ違う時などは、あのパイロットは強情で絶対に譲らないから、こちらが早めの変針しておくか、などとブリッジではそれぞれ微妙な心理が作用しているんですよ」との事である。なるほどパイロットが乗船した両船が最後まで互いに進路を譲らなかった裏にはそういう事があったかもしれない、と本職の話に納得したのだった。

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博物館の展示

2018年5月29日 (火)

2018年ワールドクルーズ後半

2018年飛鳥Ⅱワールドクルーズは、早くも約3分の2近くの行程が過ぎてしまった。ここまで凪いできた天気も、大西洋の横断の際は前線の通過に幾度か見舞われ曇天や雨天の寒空が続き、船が大きく揺れる日もあった。クルーズ最初の頃に寄ったシンガポールやプーケットなどは遠い過去の港にようにも思え、光陰矢の如しという感がするこの頃である。いつもながら気の早い人達はこの辺りでみやげの話を始めるので、それを聞いていると宴も終盤に向かうのかと寂しい気持ちが湧きがちである。


ところでクルーズも半ばを過ぎると当初あったお互いの違和感が薄れ、船内の会話が賑やかになってくるようだ。ディナーのテーブルで隣合わせになる、あるいはショアエクスカーションで同じツアーに行く、船内のアククティビティで仲間になるなど共通の体験をする事は、人と人の距離を急速に縮めるようで新たな友達が出来るのであろう。最初は旧知の人だけでお喋りの花が咲いていた船内が、友達の友達はまた新しい友達というかのような新しい組み合わせの夕食テーブルも目立ってくるこの頃である。


私達も以前の長いクルーズで友達になった方々のうちの幾人かとは、帰国した以降も定期的に会うようになった。ふつう友人といえばどうしても学校の友達や、同じ会社で働いた仲間などに偏りがちだが、ロングクルーズで年齢も職種も違う人々と時間、空間を共有する事は人生の得がたい経験といえ、その後も連絡を取り合ったりするのだろう。さてあと何日で現実に戻るのかとだんだん暗くなって来がちなところだが、ここはまだ一ヶ月以上も航海があって、その間には様々な出会いや体験が待っているはずだ。一瞬・一時間・一日の出来事や感じたことを存分に味わう気持ちで過ごしていく事としよう。

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日中の社交場、11デッキのパームコート

2018年5月19日 (土)

飛鳥Ⅱ世界一周クルーズ西欧編

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締め切り堤防。右手がソイデル海で左の湖面より高い位置にある

アムステルダム 
アムステルダムには以前に来た事があるので、今回は船から出るオプショナルツアー「オランダ大堤防とSL列車」に参加した。午前中に飛鳥Ⅱを出てバスに乗りフォーレンダムでチーズ製造を見学、エダムにて昼食、開拓時代のSLが牽く列車に一時間ほど乗った後に「締め切り大堤防」の見学と盛り沢山な内容。オランダといえば干拓の歴史で知られる通りである。大きな湾であったゾイデル海の入り口は、1932年に延長30キロにおよぶ締め切り堤防(ダム)によって封鎖され、その内側に干拓地が造成されている。ドイツやフランスなど大国に囲まれたオランダは、どうやってその独立を保つかが常に課題であったそうだ。生きるためには良いと思われる事は何でもやってみるという進取の精神がこの国の基本で、ダム建設もその一環との事。そのほか大麻も合法、レズ・ゲイ・ホモなどにも理解がある国柄であると云う。現地ガイドの説明を聞きながら、伝統と改革、保守と革新の調和・相克に挑戦し続けたこの国のあり様に思いを寄せた。

ハンブルグ
ハンブルグは伝統的な海運会社の多い場所で、現役時代には彼らとの会議に何度か来た事がある。といっても出張で覚えているのは会議室と会食のレストランくらいだったが、今回は当地に赴任している妻の従妹家族一家に町をゆっくり案内してもらう事ができた。以前ここは日本人が多くJALの直行便もあったから、現地の日本人学校もさぞ生徒が多いのだろうと聞くと、日本人の子弟が減って学校を維持するのも大変だという。今回ヨーロッパに来てちょっと驚いたのは、ミラノやローマなどかつてJAL便が来ていた都市に日系航空会社の直行便がない事であった。以前はちょっとした欧米の町には、日本の各企業から派遣された駐在員が多数いたものだ。中には何の用があって人を寄越したのか疑問に思うような会社もあったが、それらの余裕が我が産業界の人材育成ひいては競争力の源になったのでなかろうか。私も良い時代に勤める事ができたと我が僥倖を喜ぶと同時に、合理化や現法化でそういう余地が少なくなった日本の現況を寂しく感じるのだった。

ロサイス
ロサイスはスコットランドの首都エジンバラからファース湾を挟んで20キロあまり北に位置する。エジンバラの市街地にも港があるものの、以前”ウエステルダム”号で来た際にもフォース橋のたもとにあるサウス・クイーンズフェリーにテンダーボートで上陸したから、エジンバラ市にはクルーズ船に適する設備がないのだろう。飛鳥Ⅱが着いたロサイスのクルーズ船ターミナルからエジンバラの町まで連絡バスが出たが、これが往復で1万円弱と高額である。という事で今回は公共の鉄道(スコットレイル)や市バス(ロジアン)で、エジンバラ港に係留されている元王室ヨット・ブリタニア号に行ってみた。鉄道の切符自販機の操作や、昨年の紙幣切り替えによって持参したポンドが使えないなど困惑する場面もあったが、それもまた旅の思い出である。それにつけてもブリタニア号の純正チーク材のデッキは、飛鳥Ⅱを全通する木製のデッキとまったく同じ様子である事を発見し、飛鳥Ⅱが改めてお金をかけて造られた客船である事を認識した。

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ハンブルグ市庁舎

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ブリタニア号のチークデッキ

2018年5月15日 (火)

寄港地での食事の楽しみ

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船の料理も良いが寄港地で地元の料理を試すのも船旅の楽しみの一つだ。とくにヨーロッパは各地に伝統料理が多く、時間があれば現地の店に飛び込んでみた。


バレンシア(スペイン):パエリア発祥の地だけあって市内にはパエリアを出す多くのレストランがある。注文してから20分ほどで出てきた。パエリアというと日本では魚貝類のイメージだが、ここではうさぎ肉やチキンが具だそうだ。お米は固いがそれが塩味に合って美味だった。


マラガ(スペイン):観光客向けと言うよりは地元の人で賑わうバルで昼食。ヨーロッパでは昼にワインやビールを飲む人も多く、こちらも安心してアルコールがすすんでしまう。小イワシのフライに生ビール(セルベッサ)、エビのフライと白ワインに舌つづみを打つ。


リスボン(ポルトガル):2011年に飛鳥Ⅱで寄港した際に立ち寄った港裏のレストランを目指す。地元の人達の店だったが別の料理店になっていたので、その手前のちょっとモダンな店に入る。地元のビール(セルベージャ)に当地名物の微発泡ワイン(ビーニョ・ベルデ)、チョリソー焼き、タコのサラダ、イワシの塩焼き、タラのコロッケを注文し四人で行ったこともあって一人20ユーロと極めて経済的だった。


ビルバオ(スペイン):市場に併設されたフードコートのような場所にあるセルベセリア(ビアバー)のピンチョス。ピンチョスはビルバオが発祥の地との事。賑わいの中で飲むスペインのセルベッサにピンチョスは小腹を満たすにちょうど良かった。ピンチョスはどこの店も1.7ユーロ均一のようだった。


ハンブルグ(ドイツ):ドイツといえばビール。醸造所直営レストランでバイツェンにシュパーゲル(ホワイトアスパラガス)を楽しむ。ホワイトアスパラガスは今が旬でとても甘い。飛鳥Ⅱの夕食に出てきたホワイトアスパラガスはこの一本の半分ほどの量だ。このくらいのを食べないとアスパラを食べた気がしない。

左から時計回りにパエリア(バレンシア)、エビのフリット(マラガ)、鰯の塩焼き(リスボン)、ピンチョス(ビルバオ)

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2018年5月11日 (金)

ジブラルタルで考える

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故郷アフリカ大陸を眺めるロック名物の猿(バーバリーマカク)

イベリア半島のスペイン突端に位置するジブラルタラルの面積はわずか6.5平方キロ、人口は3万人でイギリスの直轄地である。初入港する飛鳥Ⅱの小久江船長が船内放送で「函館から函館山だけ切り離したようなところ」と説明したが、18キロ先のアフリカ大陸を目の前に、狭い海峡をにらんで426米の石灰岩の岩壁(ロック)が聳え立つ交通要衝の地だ(函館山は334米)。ここも例によって8世紀にイスラムの地となったのを15世紀にキリスト教徒が奪還したのち、スペイン王位継承のゴタゴタに乗じてイギリスが占領したと云う西洋史のお約束のような地である。


スペインはこの土地の領有権を主張して1967年に国連植民地委員会に返還を要求し、国連総会ではスペイン領として決裁されたもののイギリスが応じないまま現在に至っているそうだ。現地のツアーに参加しこのロックに登ると、崖の中のあちこちに要塞のためのトンネルが掘られ、ジブラルタルがどの時代でも戦略上重要な位置を占めていた事がよくわかる。それにつけてもここで考えさせられるのは、英国といえども国連総会の場において自国に都合の悪い決議に直面しても、それに一切応じなかったという事実であろう。いま覇権主義をあらわにする中国が、国際司法裁判所でフィリピンと争う南シナ海スカボロー礁の帰属問題で敗訴しても、それを一顧だにしないと強弁しているのと同様である。


今回あらためて欧州の歴史のさわりに触れて気付かされるのは、自国の存立を脅かされた国々は、自分で自分を守る固い決意を力で行使してきたと云う事だ。いま、わが国のリベラルと云われる人たちは、軍事力の行使に関して何かというと「国連の枠組みで」とか「国際協調で」などと主張するが、ジブラルタルのロックを前にするとこの主張にほとんど実感が伴わない。ブレクジットや移民問題で揺れるEUを見るにつけ、自国の安全を守るには国連や同盟の前に、経済力はもとよりまず自分で自国を守るという冷徹な決意と、それに応じた軍事力の整備が必要ではなかろうか。欧州の町でもあらゆる面で中国のプレゼンスを感じるこのごろだ。覇権主義の中国、朝鮮半島問題にかたや何をするのか不明のトランプ政権を前に、当面は日米安保を基軸としながらも、一国の独立のためにはわが国に何が必要か考えさせられる欧州の旅である。

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