2024年7月16日 (火)

500系「こだま」6号車乗車

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ちょうど一年前、しまなみ海道沿いの大島・千年松で行われた宴会に妻と出席し、帰りに500系「こだま」に乗ろうとしたところ、梅雨末期の豪雨で山陽新幹線のダイヤが大きく乱れ、これに乗車がかなわなかった。いつかはリベンジをと機会を探っていたが、一年経過して同じ宴会に妻と共に招待されたのを機に、今年は福山から新大阪まで500系の「こだま」に乗車することにした。かつて「のぞみ」に使われ東京までこの車両が来ていた頃、出張でさんざん乗ったので私は特段の思い入れはないが、JR西日本に残る500系6編成のうち、4編成は2024年~26年に引退と発表されているため、乗るなら今のうちと妻のたっての希望である。「のぞみ」時代の16両編成から今は8両編成になり山陽区間だけで運転される500系「こだま」のうち、6号車の普通車指定席は旧グリーン車がそのまま充てられているので、予め6号車を予約して乗車することにした。


500系新幹線は、山陽新幹線の300キロ運転を念頭に当時の最新技術を投入し、JR西日本によって1996年に登場した。高速運転を可能にすると共にトンネル内の気圧差や空力上の問題解決の為に、先頭車はロケットのような形状とし、車両の断面積も他の形式より小さく円筒状になっているのが特徴。この車両はデビュー当時は、鉄道ブルーリボン賞やグッドデザイン賞を受け(ウィキペディア)、巷で話題になったものだった。新製価格は一編成46億円だったとのことで、これは船なら中型~大型の外航貨物船1隻、航空機ならボーイング737の中古機ほどになるが、登場して30年近く経過しているため、いまでは減価償却も終わっていることだろう。普通車のシートピッチは現在のN700系の1040ミリに対して1020ミリとやや短いため、かつて西日本に出張する際に「のぞみ」5号(東京駅発07:52)をしばしば利用したが、なんだか狭くてごつごつした乗り心地だった記憶がある。


今回はしまなみ街道をドライブしたレンタカーを福山駅で返して、15時31分の500系「こだま」854号に乗車である。今では一日に「こだま」7列車のみ、そのうち博多/岡山間の運転が5本とあって、福山から新大阪まで行くのは一日2本のみとなる妻が切望の500系だ。最近は東海道・山陽新幹線では車内販売がないので、運転から解放されビールやつまみを福山駅で買いこんでホームに。山陽新幹線には500系のほかにN700系、700系ひかりレールスター、九州新幹線のN700系7000番台も運転されており、福山駅の停車列車や通過列車を眺めるのも楽しい。やってきた500系旧グリーン車の6号車は、シートピッチが1160ミリとゆったり仕様で、リクライニングの角度も深い。ただ床は絨毯張りからリノリウムになり、オーディオサービスのイヤホン差し込み口はパネルで覆われ、フットレストや読書灯が撤去されたのはさすがに仕方あるまい。加速も最新のN700Sに較べるとゆったりという感じがしたが、最近の電子制御満載感より無闇に旅を急かされていない感覚である。こうして新大阪までの2時間弱、ビール片手にゆったりと各駅に停車する「こだま」の旅を楽しんだ。車両運用上は、なるべく性能や仕様が揃った形式を揃えるのが効率的なのだろうが、名車である500系の退役が進むのはちょっと哀しい気持ちもする。これでやっと一年越しに妻との約束を果たし、ホッ!。

こだま854・旧グリーン車の6号車
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2024年7月14日 (日)

播州赤穂 訪問

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赤穂城 本丸への城門

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当時の建物が現存する大石邸長屋門


忠臣蔵に興味を持つようになったのは、子供のころ(昭和39年)にNHK大河ドラマ「赤穂浪士」を見てからだ。長谷川一夫演じる大石内蔵助の「 おのおのがた、討ち入りでござる 」という名セリフ、滝沢修のなんとも憎々しい吉良上野介、宇野重吉演ずる蜘蛛の甚十郎の暗躍などを今でもよく覚えている。当時さっそく大佛次郎の原作「赤穂浪士」の文庫本を買って読んだし、その後も事あるごとに忠臣蔵ゆかりの地を訪ねるのが好きだった。本所松坂町の吉良邸「江戸散策その4(2008年11月16日)」や新橋の浅野内匠頭の切腹終焉の地「12月14日 赤穂浪士の討ち入り(2018年12月14日)」、高田馬場の堀部安兵衛の決闘「高田馬場の決闘(2020年6月22日)」の場所を訪ねたことは過去のブログにアップした通りで、その他にも品川の泉岳寺にある四十七士の墓にお参りしたこともある。三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄名槍譜・俵星玄蕃」は全曲暗記しており、ドライブ中に渋滞にはまると一人クルマの中でハンドルを握りつ 「♪ 槍は錆びてもこの名は錆びぬ~♯」と唸ったりする。


赤穂浪士たちの何が、日本人の心にこれほど刺さるのだろうか。誰もが知っているとおり、元禄14年(1701年)、江戸城の松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家で監督役であった吉良上野介に切りかかる刃傷(傷害)事件を起こし、ために幕府は直ちに内匠頭に切腹を命じ、浅野家は取りつぶしの処分を下される。一方的な幕府の裁定に納得できぬ赤穂藩の家臣たちは浪人となり、復讐のために雌伏の時を過ごすこと一年有余、ついに総大将の大石内蔵助を筆頭に47人の浪士(浪人)が吉良邸に討ち入りし憎き吉良の首を取り、亡き主君の本懐を遂げるドラマが「忠臣蔵」であり「赤穂浪士」である。今なら狂信的なテロ集団の組織的犯罪とでも云われる行為だが、公儀(幕府の法律)に反してまでも、忠義(主君や国家に対してまごころを尽くして仕えること=広辞苑)に尽くすところが、深く日本人の琴線に触れるのだろう。「俵星玄蕃」で「命惜しむな名をこそ惜しめ」とうたわれたように、いつの時代も赤穂浪士の志が軽佻浮薄の世を憂う人々に持て囃されるのである。(俵星玄蕃の話は後世に作られたものであるが・・・)


と云っても東京ではこれほど忠臣蔵ゆかりの地に詣でたにも関わらず、肝心な赤穂浪士のふるさと、播州赤穂の地はなかなか訪問する機会がなかった。なにせ東京から赤穂に行くには、新幹線なら「こだま」か一部の「ひかり」しか停車しない兵庫県の相生から、単線の赤穂線に乗り換えるしかなく、その赤穂線は昼間の時間帯には一時間に一本の運転頻度とあって、ちょっと寄ってみようかというわけには行かなかった。しかしいつまで待っていても、本当に行くには自ら行動を起こすしかチャンスは廻ってこない。シニア世代は、時間ならたっぷりあるのである。そう思っていたらたまたま先週末、海運関係の友人たちとしまなみ海道の(伊予)大島にある千年松の地に集まり気勢を上げる恒例の宴会に参加する機会があり、それなら往路に一日余分に日程をとっても念願の赤穂の町に寄り道しようと思いたった。


朝9時過ぎに播州赤穂駅に降り立てば、梅雨時期に関わらず曇り空から晴れ間がのぞき、暑さも感じぬそよ風で、なにやら赤穂義士たちに天から歓迎された気がする。駅からほど近く、ぶらぶらと歩ける範囲に浅野家や義士ゆかりの花岳寺、きれいに整備された赤穂城跡、大石内蔵助を祭った大石神社などが点在して、市内をゆっくり散策することができる。赤穂市立歴史博物館では、この町の上水道が江戸初期に開通し江戸の神田上水、広島の福山上水と並んで「日本三大上水」と呼ばれたこと、入浜塩田による製塩ではこの地がパイオニアであり、良質の塩を上方や江戸に送り出したことなど郷土の誇りが展示されていた。そう云えば吉良上野介の領地である三河でも製塩が行われていたので、塩の生産に関するトラブルで浅野内匠頭には吉良に遺恨があったという説もある。かつてドリフターズの志村扮する吉良が「 この赤穂の田舎侍めが・・・・」と加藤茶扮する浅野内匠頭をさんざん馬鹿にして、それがもとで「 おのれ吉良殿 !!」と加藤が刀を抜いて刃傷沙汰になるコントがあったが、「赤穂五万五千石」は決して田舎大名などではなく、産業を奨励した立派な殿様であり、それが赤穂浪士の忠君に結び着いたであろうと推測できた。しかしここまで来ると、さすがにインバウンドの外国人がほとんど見られないのが良い。忠義などはシナ人や朝鮮人には理解不能であろう。やはり忠臣蔵は日本人の心のふるさとである。

 

製塩の終わりの過程 石釜模型(赤穂市立歴史博物館)
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2024年7月10日 (水)

ディズニークルーズ日本に上陸

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ナッソーに入港する同年1月に就航した新造船「ディズニー・ドリーム」(2011年6月14日)

ディズニーランドやディズニーシーを運営するオリエンタルランドが、新造船を投入し2028年度からわが国でクルーズ事業を始めると発表した。2011年6月の下記ブログのように、かねてからディズニークルーズが日本に来ないかと勝手な期待を寄せていたが、我が願望が実現すると聞いてびっくりである。”ふじ丸”や初代”飛鳥”が本格的なクルーズに取り組んでから30数年、最近は各種の外国船も日本を中心とするクルーズを展開しているものの、どのフネも似たような旅程の上、カボタージュ規制(外国船は国内輸送のみはできないので外地に寄港する体裁が必要)で立ち寄らねばならない外地の港も韓国(釜山または済州島)か台湾(主に基隆)ばかりである。日本船、外国船とも国内の寄港先はクルーズ船の誘致に意欲的な港が中心となり、熱心なリピーターがいる一方、我々の場合は「あそこは何度も行ったからもういいかな」とクルーズラインアップの選択肢がかなり限られてきてしまった。


そんな時にオリエンタルランドは総額3300億円の投資をし、4000人の乗客を収容する14万トンの新造船、それも日本籍船を独・マイヤーヴェルフトで建造して2028年度からクルーズを展開するというから注目である。我々がディズニークルーズの楽しさを垣間見たのは、2011年と2018年に飛鳥Ⅱでナッソー(バハマ)に寄港した際に、すぐ真横に”ディズニードリーム”が着いた時だった。飛鳥Ⅱに続いて”ディズニードリーム”が岸壁に到着するやいなや「星に願いを」を模した汽笛を吹鳴し、多くの家族連れの乗客が華やいだ様子で下船してきたことを思いだす。その様子は2011年6月17日のブログ「クルーザーズ・オン・パレード」や、2018年6月18日の「ナッソーの客船天国」に記したとおりである。どちらかと云えば高齢者が多いクルーズ船の乗客のなかで、ディズニーの船から下船した人たちの若やいだ雰囲気がナッソーの町を一層愉し気にしたことが印象的で、それ以来ディズニーのような船が日本に来れば、我が国のクルーズ環境も大きく変わるだろうと密かに期待していたのである。


現在アメリカのディズニークルーズは14万トンのディズニーウイッシュクラス船を中心に、主にフロリダ半島をベースにナッソーやクルーズ専用の島であるキャスタウエイ・ケイ(バハマ)に寄港する3泊から4泊のショートクルーズを展開している。クルーズ業界のカテゴリーによるとスタンダード・カジュアル船に分類されており、大型船を使い、価格も家族連れで旅行できるリーズナブルな設定である。船内ではディズニーキャラクターたちとのダンスパーティや交流のほか、船上でしか観ることができないショーなどが催され、子供連れのファミリーを中心に3世代楽しめる工夫が凝らされている。日本で運航の暁には2泊から4泊の日程で10万円~30万円の価格帯で料金が設定されるというから、母港を出て沿岸・近海をグルーっと回る定点のカジュアルクルーズを催行するものと思われ、そのために船もわざわざ日本籍にしたのだろう。3世代乗船ならジジ・ババの財布の紐を緩ませるにも、これはちょうど良い価格だと云えよう。4000人もの客を乗せて価格を抑える方式にするために船体内側の窓無しキャビンも多いだろうが、乗船自体が目的のこのようなクルーズならそれでも十分船旅を愉しめるから、なかなかうまい線をついていると思う。

 

多くの乗客が上下船するとなると、それに対応できる母港がどこになるのかが気にかかる。遠浅の浦安では浚渫が必要で直ちに施設が造れないとなると、ゲートウエイブリッジを利用してディズニーランドやディズニシーにほど近い東京港お台場地区の新クルーズターミナルを関係者は念頭に置いているのか。とすれば今の公共交通機関である「ゆりかもめ」ではキャパシティ不足と思われるが、浦安側でチェックイン・アウトをしてバスを利用するオペレーションを予定しているのかもしれない。はたまた京葉線沿線の千葉港の一画に新ターミナルでも準備するのか? クルーズの寄港地については伊豆諸島の一つでも借り受け、本船は沖止めとし夢が溢れるようなテンダーボートで上陸し、ディズニークルーズの専用ビーチを作り、日本版キャスタウエイ・ケイにしたらさぞ楽しいのではないだろうか。もしこの様な案が実現したら子供たちの笑顔が目に浮かびそうだ。2028年の就航に向けて今後さまざまな発表がなされるだろうが、いろいろと勝手な想像を廻らしていると、シニア世代の我々夫婦でも是非とも乗船したいという気になってきた。

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「ディズニー・ドリーム」の船尾キャラはミッキーマウスと箒

2024年7月 7日 (日)

KT50 慶應義塾體育会同期会と第100回早慶対抗陸上記念祝賀会

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相変わらずのサスペンダー姿 早慶対抗陸上祝賀会でスピーチする河野太郎大臣

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河野大臣に絡んで大ウケした早稲田OB会長の瀬古利彦氏

武漢ウイルス禍で2020年以来、4年間中止になっていた體育會36部の同期卒業者の会(KT50)が、日吉キャンパスのファカルティラウンジで昨日開催された。この4年間の物故者が19名あったという事だが、地方に住んでいる者も多いなか、大学卒業から50年経っても、総勢330名のうち110名が参加したというから立派な出席率と云える。どうやら皆、この会の再開を心待ちにしていたようで、今回はいつものメンバーに加えて、初出席の顔が多数あったのが目立った。これまで企業の役員などを勤めてきた者、或いは地方の工場などで長らく現場を離れられなかった者などが、やっと70歳を過ぎて任を解かれ出席できるようになったようだ。前後の代の同期会では出席者が少なくなり開催できなくなった世代もあると云うから、我々の学年はとても集まりが良いということになる。卒業当時は、野球や蹴球(ラグビー)などは戦力の谷間とも云える時代で、圧倒的なヒーローがいなかった故に、却って皆の結束が固いのかもしれない。(リンク2019年7月6日:KT50 慶應義塾體育会同期会)

かねてより顔だけは知っていても、なかなか話かけるチャンスがなかった他部の者同士も、「同じ釜のメシを喰った仲間」となるのだろうか、お互い目が合うと、今の現役部員の活躍や共通の友人の話題、合宿所のメシや賄のオバサンなどの昔話などで盛り上がる。70歳をとっくに過ぎてしまえば、もう裃を着ている必要もなくなったという感じであろう。最後に皆で会った5年前と比べて、今回は格段に他部の出席者との距離が縮み、和気藹々とした会場の雰囲気になったことが印象的だった。最近の體育會はラクロスなど新しい競技も増えたし、100名を越す部員を擁する部も多いが、当時は野球部や蹴球部や我が競走部のような大きな部でも部員は60人ほどとあって、同期は各部ともせいぜい10数人程度だった。学園紛争が吹き荒れたあの時代、大方の大学生とは反対に弊衣破帽、デモも勉強もせずスポーツに打ち込む生活をしてきた数少ない仲間とあって、老いて同期の絆は年々強まるようだ。


この日はたまたま昼間に第100回早慶対抗陸上競技会が同じ日吉の陸上競技場で行われ、試合後は学生食堂で記念祝賀会が行われたので、同期会に参加した我々競走部の仲間は、引き続き祝賀会へと両パーティ掛け持ちとなった。対抗試合の方は慶應の主将・豊田君がパリオリンピック準備のため出場を見合わせるなか、早稲田大学は4x200米リレーで日本新記録を出すなど、実力と層の厚さの違いを見せつけて慶應を下したが、夜に行われた祝賀会は、両校部員の他、関係者やOBなどが多数出席して大いに盛りあがった。当日は、陸上の試合中から何やら目つきの鋭い短髪・黒い背広姿の男たちがキャンパスのそこかしこに立っているのを不思議に思っていたら、早稲田大学競走部OBの河野洋平元衆院議長と慶應OBの河野太郎デジタル担当大臣の親子観戦とパーティ出席のために、周囲の警戒にあたるSPであった。


河野太郎氏は祝賀会のスピーチで「 慶應大学の競走部は中退です。でも慶応高校競走部時代に国立競技場で行われた早慶戦のオープン競技の5000米で、瀬古選手と一緒に走りました。後ろから来た瀬古選手にあっと云う間に抜かれたと思ったら、実は私は1周遅れでした」とウケを取ると、やおら早稲田大学競走部のOB会長である瀬古利彦氏がマイクを奪い「あれは1周ではなく、2周か3周遅れです」とまぜ返してワーッと会場が盛り上がる。政治家としての河野親子には許せない部分も多いが、これもいっときのご愛嬌と一応拍手を送っておいた。それにしても高校に続き、大学に入ってたかだか4年間、若い日に運動をやっただけで、70歳を過ぎた今も、同期の皆や世代を超えた早慶の多くの仲間と喜びを共有できるとは何と幸せなことだろう。運動部を卒業して良かったとの思いと、肉体的にも経済的にもそういう境遇を享受できた僥倖に改めて感謝した一日だった。

2024年7月 1日 (月)

豊田兼君 パリオリンピックへ(第108回 日本陸上競技選手権大会)

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週末は新潟で行われた第108回日本陸上競技選選手権大会をTV観戦して楽しんだ。この大会、何と云っても400米ハードルで競走部後輩の豊田兼君(4年・桐朋)が47秒99の好記録で優勝し、今夏のパリオリンピック大会の出場切符を手にしたのが嬉しかった。競走部からは2000年のシドニーオリンピックに競歩の小池昭彦君が出場、2004年アテネ大会、2008年北京大会を除き、山形亮太君や横田真人君らが2012年ロンドン、2016年リオ、2021年東京大会と続けてオリンピックに選手に選ばれており、豊田君の出場で4大会連続と記録がまた伸びることになった。次の週末には武漢ウイルス感染騒動後、5年ぶりに體育會の39部を一緒に卒業したOB一同が集まる同期会が行われるが、総勢100名以上の他部参加者の前で後輩たちの活躍に我々競走部のOBはちょっと鼻が高い。


私自身、現役時代は大した選手ではなかったが、ビールを片手にテレビ画面に映しだされる選手達の姿を眺めていると、当時の色々なことが頭に浮かんで来る。あの頃のレースはアンツーカーやシンダーの土の上で行われていたので、私が走った中・長距離のレースでは昨日のような雨の日には、前後の選手の跳ね揚げで全身泥まみれになったものだ。当時は土のトラック用にスパイクの針が長かったため、集団で走ると前の選手のスパイクで脛を削られて、膝から下が血だらけということもあった。今は全天候トラックとなってあの頃より雨の日でも記録の落ちがぐっと少ないのだろう。また最近は女子選手も多くなり、そのユニフォームもカラフルになって陸上競技の大会も華やかになったことが画面から伝わってくる。なにしろ、かつては800米を超えるトラック競技は女性には過酷すぎると云われ、種目がなかったのだから時代は変わるものだ。(因みに女子種目の1500米は昭和44年(1969)、5000米は平成9年(1997)、三段跳びは昭和62年(1987年)、棒高跳びは平成7年(1995年)から日本選手権の実施種目になっている。)

 

昨日もテレビで女子の中・長距離レースを観戦しているうち、つい身が入って「このペースなら50年前のオレなら集団について行って最後のスパートで優勝できたな」などとつい口走ってしまうのだが、傍らの妻は「女子と比べることになんか意味があるの」となんとも冷ややかである。一方で男子800米決勝では社会人のベテラン選手たちがマイペースに徹し、高校2年生の落合選手の先行逃げ切りに対応もしなかったので、「大の大人が策もなく高校生に負けてどうすんだ、高校生なんぞに絶対負けられるかという気概をもって走れよ」「こういう時はだな、最後の直線に入るまで彼を集団でポケットして前に出させないんだ」とつい鼻息荒く語ってしまった。聞いていた妻は「高校生にそんな意地悪するものなの?やぁねぇ」と思わぬところで面白がっていた。


最近いつも感心するのは800米から5000米まで多種目に積極的な挑む田中希美選手のチャレンジ精神。特に土曜日は800米の予選を走り、その1時間半後に5000米決勝を走るというふつうは考えられない間隔でレースをこなしたのには驚いた。彼女はよほど強靭なメンタルと大きな目標を持って競技に励んでいるに違いない。この心意気があれば、いつの日かもう一皮むけて国際的にも有名な大選手になることだろう。その反対に日本の男子跳躍陣はどうも覇気がなく、走り幅跳びの今回の優勝記録は7米95と8米にも届かなかったのはなんとも不甲斐ない。山田宏臣氏が8米01を跳んだのは「地獄のジャンプ(2008年5月20日投稿)」1970年と今から54年も前のことであり、1969年(昭和44年)の日本選手権の優勝記録は7米90だから、その当時から走り幅跳びはあまり進歩していないようだ。雨の影響があったことはわかるが、棒高跳びや走高跳の記録も然り。何十年も記録が伸びないのは、跳躍選手の発掘・育成になにか欠陥があるのではなかろうか。いずれにしてもオリンピック・パリ大会は間もなく開幕である。4年に一度(今回は東京以後3年)の熱い夏がやってきた。

 

男子800米 高校生の落合君が独走(Youtubeの日本陸連チャンネルより)
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2024年6月28日 (金)

日々あれこれ

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新橋の飲み会の行き道、寄り道した日比谷公園ではいまユリの花が満開

「70歳を過ぎてウクライナの人と結婚しました。三十歳以上年下の女性です」と会社の同期入社の男からメールの便りが来た。結婚相手は戦乱を逃れて来日したのか、以前から在住している人なのか定かでないが 「お前は生涯独身か」と皆にからかわれていたから人生はわからないものである。そういえば最近は仕事も暇になってみな寂しいのか、次々とお誘いや近況報告の便りが舞い込む。昨日は中学校の男女友達6人の飲み会だったが、幼稚園の時の仲間、高校や運動部の同僚、会社員時代の先輩後輩など、各種集まりの誘いに応じていると、7月もけっこう予定表が埋まって来た。時々今の仕事に関連する付き合いもあって、枯れ木も山の賑わいだが、元気なうちは会合やパーティにはなるべく顔をだすことにしている。


会合と云えば、我々の世代になると、みな時間だけはたっぷりとある。昼飲みだとサラリーマンの迷惑にならないように、午後一時過ぎから開始。夕方の場合は店がオープンする5時きっかりに始め、7時頃には1次会お開き、その後に軽くもう一杯飲むか、あるいはコーヒーなどで、ということが多い。総じてかつての様にバカ呑みしたりせず、ほろ酔い加減で家路につくから、ジジ・ババパワーも世の迷惑にならずに、経済活性化に僅かばかりではあるが貢献していることになる。別れ際には「せっかくだからLINE皆でやろうぜ」「賛成、賛成!」「で、どうやるんだ?」「俺知らないから誰かやって」「俺も」というのがお決まりの会話。そんな場合には子供や孫とLINE連絡を取りあうことが多い女性陣が、「スマホ貸して、私がセットしてあげる」ということで落ち着くが、「俺はまだガラケーだよ」という男性が残っていて一同ずっこけるのがお約束のパターンである。


昨日の読売新聞の「人生案内」には70歳台の歯科医師が、身の廻りのことをすべてやってくれる7歳年下の妻が先に逝ってしまったらと考えると不安でしょうがない、と相談を寄せていた。作家の藤原智美氏の回答は、掃除、洗濯など家事や身の回りのことを一つづつ妻にならって勉強しなさい、とのことである。家事でないが、わが家はスマホ・パソコンの設定からパスワードの管理まで、ネット関係はすべて妻に任せきりで、もし彼女になにかあったら、在宅で引き受けている今の仕事を始め、ネット時代に生きていくのがかなり不便になることは間違いない。この人生案内の男性以上に我々は夫婦の年齢差があるし、ふつうは女性の方が長生きだからまずこんな心配は無用だと思っているのだが、何があるのか分からないのが人生である。「皆同じようなことを心配をしているんだ」と妙に納得しつつも、いまさらネットやスマホの知識を増やす気力もなく、「頼むから先に死なないでくれよ」と、こればかりは下手に出る日々である。

2024年6月21日 (金)

保守の台頭

欧州では”極右政党”が台頭しているとされている。すでにメローニ首相率いる右派が政権を担っているイタリアを始め、フランスではルペン率いる「 国民連合 」、ドイツでも「 AFD 」という”極右”の政党が勢力を伸ばしているそうだ。しかし彼らの主張を見れば、行き過ぎた移民政策や極端な地球温暖化対策に反対し、伝統的な家族形態の復活を唱えているだけで、かつてのナチス党のように特定民族の抹殺などという狂気の政策を掲げているわけではない。その後のイタリアが極端に右にぶれていないのを見てもわかるとおり、彼らは”中道右寄り”と云える政策目標を目指す「 国家保守主義者 」であるようだ。逆に云えばメディア始めいわゆる識者たちが、かなり左に寄った視点から世界の情勢を捉えているから、これらの台頭を”極右”とレッテル張りをしているのである。


イギリスはさっさとブレクジットでEUを離脱したし、アメリカも「もしトラ」ではなく「ほぼトラ」となり、MAGA ( MAKE AMERICA GREST AGAIN ) を主張する共和党トランプ氏の大統領復帰が見えてきた。トランプ大統領の再登場となれば、アメリカがパリ協定から離脱することが予想され、昨今の行き過ぎた地球温暖化対策は一旦立ち止まることになるだろう。さらに移民の流入が大きく規制されることが間違いないし、対中国を念頭に輸入関税も引き上げられる見通しで、国境の壁が今より格段に高くなることが必至であろう。米・民主党やグローバリストたちが唱える「人権」やら「平等」いわゆる「ジェンダー」、「多民族共生社会」や「CO2削減」政策が、足踏みすることになり、さらにはUSスティールの例で見るように株主資本主義の見直しも起こるかもしれない。これら欧州でも米国でも起きている「 国家保守主義 」運動の高まりは、ナショナリストの台頭であり、グローバリズムの終焉を意味している。それはまた、グローバリズムに親和性の高いサヨクやリベラルの後退でもある。


LGBT問題や移民政策のように、ノイジーマイノリティと呼ばれる特定の少数の権利ばかりを保護し、サイレントマジョリティである真っ当な市民をないがしろにする、グローバリズムの風潮に先進国の人々がウンザリしているのが、これら一連の現象のもとにある。地球全体を一つの共同体と見なして、世界の一体化(グローバリゼーション)を進める思想がグローバリズムとの事だが、地球温暖化対策に見られる如く、頭でっかちの理想を一方的に押し付け、それに突き進むのが彼らの特徴である。そしてその裏に必ず見え隠れする利権の構造に世界は辟易としている。世の中のあらゆる差別( と云われる現象 )を無理繰りに掘り起こしては、平等を目指すとする運動( とその利権は )、ソ連崩壊で夢破れた共産主義者たちの絶好の隠れ蓑となって、この20~30年の間、世界を席巻してきた。しかしグローバリストの活動は、結局のところ人権派弁護士などの利権屋を太らせ、社会の分断を招いただけであったし、地球温暖化対策もほころびばかりが目立つ。ごく普通の市民生活を脅かしてきたそんな風潮にそろそろ幕が下りるとは、まことに喜ばしい限りだ。グローバリストである米国民主党バイデン大統領のポチと呼ばれる岸田首相も、早晩お払い箱になるであろう。


世界的な保守の躍進を前に、思想家である先崎 彰容氏(日大教授)が、以前「保守」についてこんな見立てをネットにあげていた。保守思想とは『 自分という存在のなかに、自分以外の存在、歴史という時間が流れていることを知る 』ことだと彼は云う。グローバリズムや共産主義については『 まず共産主義が私たちに馴染(なじ)まないのは、理想に人間の未来を託すからである。わずか数十年の生しか紡いでいない人間が、画一的に社会をつくる。まるで、長い年月のなかで豊かな水と動植物を抱える杜(もり)を、人間の傲慢で植林にしてしまうのと同じである。革新とは、未来のために過去を否定し現在を犠牲にする生き方である。対する保守は、過去を慈しみ、その維持を使命とする 』。けだし事の本質をついた素晴らしい説明だと云えよう。頭の中で作り上げた妄想による理想社会(例えば脱CO2や多文化共生)であるとか、「完全平等」(例えばポリコレやジェンダーレス)を急進的に目指す社会は必ず失敗する。進歩は常に地道かつ漸進的でなければならない。先進国の「国家保守主義の台頭」を歓迎したい。

 

2024年6月14日 (金)

河村瑞賢(伊藤潤著:江戸を造った男)

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酒田の町を2度訪問して、この町がかつて北前船の発航の地であったことを知り、好奇心を大いに刺激されたのは先ごろ記したばかりだ。北前船といえば、2022年5月”にっぽん丸”で佐渡の小木港に寄港した際、「北前船で栄えた町 宿根木散策ツアー」に参加し、北前船の船大工の町や、実物大に復元された千石船”白山丸”を見学したことが記憶に新しい。また今でも瀬戸内海の各地を折々訪れると、北前船が潮待ち、風待ちした港がそこかしこに残っており、往時を偲ばせる常夜燈などの施設や街並みを見ることができる。江戸時代から鉄道が整備される明治時代の半ばまで、北前船が日本の物流を支えていたことを、クルーズ船などで日本の古い港町を訪れれば訪れるほど肌身に感じることが出来る。この北前船の航路を開いたのが河村瑞賢である。彼の胸像を酒田市の日和山公園で見た際に、船乗りでもない江戸の商人だったこの人物が、徳川幕府の命により54才の時に航路を開設したと知り、いったい彼はいかなる者だったのか、にわかに興味を覚えた。(下のリンク参照)


その取り掛かりとして、河村瑞賢の一生を描いた小説「江戸を造った男」(伊藤潤 著)が朝日新聞出版から出ているので取り寄せてみた。文庫本にして、河村瑞賢の幼少の頃から、死に至るまでの足跡を丹念に描いた540頁に亘る大書である。小説なので所々に筋を盛り上げるための創作や誇張があるではあろうものの、一介の商人だった河村瑞賢がなぜ徳川幕府にこれほどに重用され、幕藩体制の下で歴史に残るインフラ整備に力を尽くせたのかがまとめられていた。読み進めると江戸時代初期の流通や経済の仕組みが小説の中に分かり易く描かれ、「なぜ酒田が北前船の発航の地になったのか」など、以前から疑問に思っていた点に得心がいく内容であった。平均寿命がせいぜい40才ほどだった時代に、彼は50歳台で航路開設事業を成功させたほか、80歳過ぎで亡くなるまでに鉱山開発や大規模な治水事業などを成し遂げ、最後は徳川幕府から武士身分を下賜されている。隠居する間もなく清廉を胸に、世の為人の為にと働き、逆境に屈せず数々の難事業を成功させた彼の生き様を描いた「江戸を造った男」は、「ビジネスパーソン必読の長編時代小説」と本の帯にある通り人生訓の本でもあった。


河村瑞賢の晩年の大事業は大阪・河内平野の治水対策で、本書にはこの工事の模様も詳しい。私は大阪に行く度に淀川の右岸(北岸)を走る東海道在来線が、淀川を渡って大阪駅だけ川の左岸(南岸)に行き、駅を出たら再び淀川を渡って右岸(北岸)に戻る、すなわち駅の前後でなぜ都合2回、大きな淀川を渡っているのか昔から不思議だった。これについては、最近読んだ「鉄道ジャーナル」6月号の「大阪神戸間鉄道の戦前史」に、度重なる大阪地区の大水害を防ぐために明治時代に淀川の大改良工事が行われ、大阪市内の水の流れを新しい箇所に造った放水路に付け替えたことによって生まれた光景であると説明されていた。治水事業が大阪駅の前後で同じ川を渡る2つの鉄橋を作ったとは目から鱗だが、これは東京で暴れ川の荒川を付け替えたためにできた、東武伊勢崎線の鐘ヶ淵大カーブと同じようなことだったのだ。村田英雄が「王将」で「生まれなにわの八百八橋」と歌ったとおり、大阪の歴史は常に治水の歴史でもあった。瑞賢の死後、懸案の大和川の付け替え工事が行われたが、この町の治水の基礎は彼の工事に負うところが大きいことを知ると、次に大阪に行って見る淀川や道頓堀の景色もまた違ったものに感じることだろう。

リンク:
酒田探訪 北前船 (酒田・海里の旅②)2024年5月20日
続・陸と海と空 にっぽん丸の「門司発着 海の京都 舞鶴と佐渡島プレミアムクルーズ」その5(寄港地編 佐渡)2022年6月10日

2024年6月11日 (火)

膝が痛い(続き)

20240611
ウォーキング中 皇居・北の丸公園でこんな注意書を発見

本格的に膝を痛めてから一か月強。時々通っている整骨院からは「大分よくなったのでそろそろ走っても良いですよ」と云われるようになった。と云うことで恐る恐る走りだしてみたが、今回痛めた右膝だけでなく元々痛かった左膝にも違和感があって、まだまだ本格的に走るには至らない。整骨医からは「もともと悪かった左膝をかばっているうち、右をひどくしたのでバランスを直していきましょう」と云われている段階である。現在のところ1週間7日単位で、ジョギングを2日、区営プールでの水泳1回、チャリ1回、ウォーキング2回、そして完全な休みを1日とるウイークリーローテ―ションを組んでゆっくりと体を動かしている。水泳やチャリは走るほどには膝に力がかからないので、いくらやっても痛みは来ないし、ウォーキングも下り坂を速足で歩いたりしなければ痛みを感じないのが助かる。やっとここまで回復してきたので、この調子で完全回復を目指す日々である。なにより体を動かさないと、夕方のビールが旨くない。


チャリやウオーキングで街を巡ると、ジョギングばかりしている時には目につかなかった景色を発見して別の面白さを感じることもある。こんな珍しい店舗が身近にあったかとか、けっこう古い歴史や由緒ある寺社仏閣がここにあるのかと、足を止めて見学することが以前より格段に増えた。走る行為は一旦スタートすると、没我的に自己の世界に入り易くなり、肉体的にも前ばかりを見て走りがちとなる。ランニング・ハイと呼ばれる現象で、この麻薬的な体験が多くの人を日常的に走る行為に駆り立てるのだが、この時、周囲の景色はただ流れているだけで、記憶にはほとんど残らないものだ。(もっとも妻は走っている時にも、夕飯の献立を考えたりするそうだし、街頭の店先に目についたものがあった、などとよく云うから女性と男性では走る時の視界がまったく違うのかも知れないが。)移動する速度の違いだけで、目に入って印象に残る風景が違うことを、チャリやウォーキングで改めて発見する日々である。


膝に痛みが出るまで、これまでは永きに亘り、最低でも毎月延べ20時間は走るようにしてきた。私の平均的なジョギング速度は時速にして約10~11キロなので、最低でも毎月200キロ、多い月は270キロほど走ってきたことになるが、これはやはり老体には過剰な距離であろうか。走る行為は、エネルギーの点ではとても効率的で、メッツ(METS)という運動強度を示す単位によれば、ジョギングは自転車や歩行に較べて、(速度によって異なるが平均的に)単位時間あたり2倍以上のカロリーを消費する計算になる。故障前に比べて同じ様に食べ同じ生活様式を維持すれば、腹も出てくるということになるので、自転車を漕ぐ日や町を歩く日は2時間ほどは継続するようにしている。ジョギングは10キロ走るのにも1時間ほどで済むので、エネルギー効率という観点からすると、チャリや歩行は「倍以上の時間が必要」ということになるが、加齢に伴う痛みとあればこれも仕方ない。時間だけはいくらでもあるのが老人の特権でもある。天が休息を命じていると信じ、完全に膝の痛みがとれるまでは、町の景色を楽しみながらゆったりとペダルを漕ぎ、ウォーキングの歩を進めることにしている。

「膝が痛い(2024年5月15日)」

2024年6月 1日 (土)

じじいの出番

20240601

定年後再就職した会社には、今もシッピングブローカーとして時々出入りをしているが、その部門の若手を相手に、契約書や船荷証券の講義を3回に亘って講義してほしいと頼まれた。入社数年目の男女で、バラ積み貨物船部門の5人ほどが受講者である。今の海運会社の若手社員は、「習うより慣れろ」の我々の時代と違って、新入社員時代からマナーやコンプライアンス、法務や保険などについて関係各部や顧問弁護士などから至れる尽くせりの講習を受けている。ところがいざ現場に出てみると、教科書にはない変化球的な問題が日々続出し、習ったことだけではとうてい先に進めないのが実際である。以前は仲間同士で智恵を絞ったり過去の事例を研究して備えたものだが、今の若者は自分の弱点と見られそうな場面に直面すると、誰かに「教えて下さい」と大声で助けを求める手段はまずとらない。なにしろ「今日は風邪で休みたい」と会社に申し出るのに、(かつて一生懸命ガラガラ声で演出した)電話でなく、さらっとメールで伝える世代だから、言葉による情報の共有が我々の頃とは違うようだ。


以前と違って、ほとんどの会社組織から「課長代理」や「部長代理」「専任部長」などの肩書を持つ役職者が極端に減ったことも若者を困難に追いやっている。これら役職者は日々のメール(昔ならテレックスやファクス)をチェックし、周囲の電話のやりとりや日常会話からちょっとした異常を検知して、大きな問題になる前に手を打つ役割を負ってきたが、今の組織では人員削減の余波で極端にこういう人達が少なくなっている。入社してほどない若者たちは、目の前を通過する契約書や証券自体の字づらは知っていても、何かトラブルがあった際に、歴史を踏まえた上で実務へ応用したり、うまく条文を援用することまで気が廻らないし、それを教える人がいない。そこで私のようなロートル、しかも会社を去って久しい人間に、これら書類の「内容見直し学習」講師の依頼が廻って来た。といっても私は海運界に入って50年間、ほとんどが荷主への営業活動、船舶の仕込み、運航管理などをしてきたものだから、法務や保険などの部署で専門的に仕事をしたことはない。ただこれまで多くのトラブルに出会ってきた中で、法務や保険のプロの意見は一応聞きつつ、現場で実務的に解決を図ってきた経験を(おそらく)買われての久々の登板である。


よって実務家としてはどんな紛糾事例が実際に起こり易く、現場ではどう相手と『妥協』して『適当』に折り合いをつけるのかなどの話が多くなる。「 こんな問題は、社内の法務室や弁護士に聞いても、決まりきった答えしか返ってこないから、さっさと担当レベルで妥協しておいた方が得策だ、あとで大きな問題には絶対ならないから 」などとコンプライアンスがちがちの専門家が聞いたら、目をむきそうな実務家視線のヒントを織り交ぜることを講義中に忘れないように心がける。また洋の東西を問わず海運はどう発展してきたか、どういう歴史的背景を以てそれぞれの条項が成立したのか、どの部分が時代遅れで無用なのかの説明も多めに加えた。難解な契約文書の条項の一言一句の成り立ちを、記憶の片隅に留めておくことは、後年、彼らが何等かの問題に遭遇した際に解決の一助になろうとの気持ちである。こうして3回、1回1時間半の予定だったものが、なるべく法務や保険の専門家の視点から外れつつも、その領域のことを語るという変則気味の切り口にしたため、ついつい話があちこちに脱線してしまった。雑談を含めて終了時間をオーバーし、毎回2時間以上の講義となったが、受講者は予想外に皆が熱心に聞いてくれた。受けが良かったのは、自分の多くの失敗談を包み隠さず喋ったためか。定年後、クルーズ船で日本や世界の港町を訪れ、そこで得た海運の知見をまぶしたことも彼らの興味をそそったようだ。人生、無駄なことは何一つもない。これまで「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」との心境だったが、若い人たちから「お世辞でなく、是非またやってください」と聞くと柄にもなく嬉しいものである。

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